2023年4月30日日曜日

遇ひ難くして遇うことを得たり

 生死の問題ほど重大な問題はない。
 そのことを自覚しても、それを解決するほど難しい問題はない。
 五欲の酒はよほど美味しいとみえる。その酒を飲み飲みでよいから、佛法を聞いて、この重大問題を解決しなければならぬ。

 一たびこの問題が解決するならば、人生の根本問題が解決されたのであるから、五欲の人生問題もすらすらと解決できる。
 それを人間は知らない。そこに釈迦如来の慈悲の涙がある。御出現の意義がある。
 佛法は是れ安楽の法門であるが、その味わいは知る人ぞ知る。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2023年4月25日火曜日

往相の回向に大行あり大信あり

 「行」というと、滝に打たれたり、お経を読んだり、坐禅をしたり、断食をするもの、というのが一般の人の通念であろう。
 大戦中は、「他力本願では戦争に勝たれぬ、自力でなくてはいかん」と言ったものだ。そうかといって、各学校の生徒は義務的に月一回神社に詣って戦勝の祈願をさせられたのであった。戦争と宗教とごった混ぜにしておったのである。
 現代でも、祈祷と信心の区別さえも分からぬ人が多い。何が真実の行やら、何が真実の信やら、その知識さえもうとうとしいものである。

 佛教では各宗とも、行信を重んずる。随ってその研究も詳密を極めておる。
 聖道門では、八正道や六波羅蜜(戒定慧の三学)を「行」という。この場合、菩薩は「行」によって佛果に登るのであるから「進趣」の義がある。
 小乗佛教では、十二因縁を説く場合に迷いの第一原因を無明と為し、第二を行としてある。この場合の「行」は諸行無常のことで、移り変わること(遷流)を「行」(Samskãra)というのである。
 禅宗では、第一の行は坐禅であるが、また托鉢や作務も行の中に数えられる。
 浄土宗では、善導大師が『観無量寿経』の下々品の臨終の念佛に重きを置いて、その意を以て『大経』をも解釈して念佛往生を創められたから、称名念佛することが「行」と考えておる。

 浄土真宗は『大経』に据わって、第十八願を五願に開いた上で「唯信正因」「唯信別選」を主張する。
 その時の行は、信心海から流れ出た、報恩行としての称名念佛を「行」というのである。また南無阿弥陀佛を「大行」と呼んでおる。
 さらに遡れば、「大行」というのは、法蔵菩薩が五劫に思惟し、兆載永劫の間修行せられた八正道・六波羅蜜(大悲)の行、すなわち菩薩の行業が「行」である。それ故に「行」とは「行業」の意味である。
 また信心(信)に対して「南無阿弥陀佛」を「大行」といい、信心が流れ出る念佛を「行」という。この行は衆生を往生せしむる「大道」である。法雷学派では、行を進趣の義に用いない。 

稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)
  

2023年4月20日木曜日

お聖教の薫習 春風駘蕩のごとし

 いつの世にも、賢ぶる人が異安心を唱える。あれはわるいことである、にくらしいわざである。わが身はえらいもの、人はアカンものと思って高ぶる人、少しばかり学問して分かった顔をしておる人が異安心を唱える。そんな人はだいたい無学じゃ。ほんとうに立派な師匠に就いて、深くお聖教をいただけば、異安心にならぬものである。

 『教行信証』と『和讃』とを、くれぐれも拝読させていただいて、
 「心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す」
と仰せられた聖人をお慕い申し上げることは、何よりもありがたい、幸せのことである。
 高慢同行がぐじゃぐじゃ言うてきても怒ってはならぬ、冷やかしてはならぬ。自分はただ佛語を信ずるばかりである、といって聖教の言葉を取り出して、お味わいを言って聞かせてやるがよい。そうすると、相手の人もいつしか恐れ入りましたとなって、頭を下げるものや。自分がお聖教の言葉の前に頭を下げてかからぬと、相手は頭を下げませんぞ。

稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)

2023年4月15日土曜日

安心のしどころ

 煩悩の雲霧のうちから、善導大師や法然様や、親鸞聖人のおすがたが、にゅうと現れてくださって、そのお言葉が煩悩の雲霧を破って朝日の東天に昇るがごとくに、消しても消しても出て下さる。ああ、佛語というものは尊いものである。ただただ佛語・佛教・佛願が現れてくださるので、ありがたい。私の心の依りどころ、安心のしどころ、往生の礎である。

 如来様、お釈迦様、また祖師聖人の「御和讃」のお言葉、あれがなかったら、いくら説教を聞いても、説教をしても、埒が明かなかったであろうに、お聖教のお言葉があり、お言葉の裏には、尊い人格が光ってござるで、頭が下がる。お言葉の前に頭が下がる。お言葉のうちに安心させていただく。これ以外に私の信心も安心もない。もう私は九十歳の赤児である。親と親の言葉が私のいのちである。

  法のため ささげしいのち 法のため
   なおささげよと 古稀の春をば

 とかく若いうちは学問をし、説教をし、議論もし、批評もし、色々とやるものであるが、なかなか赤児になって、「和讃」の一句が如来の金言、いや、諸佛如来と拝めぬものや。それでいくら説教をしても、いくら説教を聞いてもあかん。如来と如来のお言葉以外に、信心も安心の依りどころもない。

 いくらおろかなものでも、「和讃」の一首や二首は憶えられる。憶えて、そのわけを聞かせていただいたならば、それが我がいのち、これより他に我が往生はない、と肚を決めて、かたじけなく、ありがたくいただかぬと勿体ない。

稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)

2023年4月10日月曜日

悲願は喩えば太虚空のごとし

 蓮如上人は我等のごとき凡夫を「末代無智」と仰せられたのであるが、説教を聞き、書物を読み、真宗学を五年十年とやっておると、ついついいつの間にやら、末代無智が現代有智になってしまう。
 人間が有智になると、「釈迦弥陀は慈悲の父母」ということを忘れて、信心を取りにかかる。
 信心を取ろうと思って一歩踏み出すと、「何を信じたら助かるのか」「どう信じたら救われるか」ということを頭の中に置いて、心の中で思案工夫し、思い煩うのである。
 そして「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」と聞いても、南無阿弥陀佛を分析してかかる。「誓願不思議」を聞かされても、「誓願とはどういうものか」と、また分析し理解しようとかかる。このように分析に分析を重ね、知解に知解を重ねて物識りになり、学者になる。
 こうなって心の中はどうであるかといえば、阿弥陀如来の無量力功徳も忘れ、南無阿弥陀佛の威神功徳不可思議も忘れ、誓願不思議の大智大悲のよびごえすらも忘れて、「ああそうか、分かった」「分からなくなった」「私は阿弥陀様にまかせました」「如来様が助けて下さると思うております」「分かっておりますが、もう一つ安心がなりません」などと行きつ戻りつして、何十年経っても埒が明かん。

 ところが、だんだんと如来様の照育にあずかり、方便力回向にあずかって、佛智不思議、誓願不思議、名号不思議、大慈悲不思議、如来様の無量力功徳の不思議が徹到して、赤児の阿呆にせられてみると、宇宙旅行者が地球外に飛び出して初めて大空の色を見、地球の色を見たように、「誓願不思議、名号不思議」が、特別に如来大悲の生命の色をもって現れていてくださっていることが、初めて拝まれるのである。赤児になるとは、「ただ信ずる」ことである。
 如来の大生命が我が生命、如来の成正覚が我が血肉、如来正覚の功徳力が我が信心、如来の誓願不思議が我が往生と、何の造作もなく、苦労もなく、努力も費やさずして、すらっといただけるのである。

 この時、如来様は無量力功徳の親様で、南無阿弥陀佛は威神功徳不可思議力の「大悲の佛智」の丸出しであり、その佛力を丸出しにして、「助けなおかぬ」の大誓願は、そのまま誓願不思議、不可思議力の大誓願力であることが、何となくたのもしくいただけるのである。
 そこのところを誓願不思議を「誓願不思議」といただき、「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」といただくというのである。
 その世界には、凡夫自力の迷心が少しも混じっていない。それ故、その大信心を指して「義なきを義とすと信知せり」と仰せられるのである。これが「願力自然」「自然法爾」の深義である。

 要は「弥陀の誓願不思議」を「誓願不思議」といただき、「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」を「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」といただくばかりである。願力不思議は、凡夫のはかろうべきところではない。謙敬聞奉行、素直に、ただ仰ぎたてまつるのみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)

No.139