2023年3月30日木曜日

この一句のうちに

 親鸞聖人の御撰述の書を拝見すると、大事なお聖教の巻頭の御文には、聖人の全力、全生命が打ち込まれているように思われる。聖人の主著『教行信証』総序に曰く、

「竊かにおもんみれば、
 難思の弘誓は難度海(生死の大海)を度する大船、
 無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」

と。「難思の弘誓は難度海を度する大船」とは、どういう意味であるか。つらつら案ずるに、その趣旨は『歎異抄』第一章の、

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいゐらせて往生をばとぐるなり」

と同じ意味である。「難思の弘誓」は「誓願不思議」である。「難思の弘誓」(因)は阿弥陀如来の大悲心であり、願心である。「無碍の光明」(果)は本願力の「力」である。因果不二にして一本願力であり、一南無阿弥陀佛である。

 ここに聖人が全生命をかけて、かく断定しておられることに着眼すべきである。この外に佛法なく、この外に「生死出づべき道」がないという聖人の思し召しである。
 一句の法門を、短いから簡単であるからといって、これを粗末にするものは、遂に生死を出ずることが出来ないであろう。生死出づべき道はこの外にない。
 聖人が「難思の弘誓一つである」「誓願不思議一つである」と仰せられているのに、何をうろうろ千言万句を探し求めておったのであろうか。一句に腹のふくれぬものは、恐らく千言万句を聞いても物足りなく思うであろう。

 今にして思い当たることは、私の三十七歳の時、父久太郎が亡くなった。亡くなってからおよそ一ヵ月ほど経ったある夜、夢の中に父が現れて、
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり、
 これじゃぞ、ここやぞ」
といって、そのまま消え失せてしまった。親というものは有難いものである。
 その後五十余年間、この聖句を思念し、憶念しておる。ただ憶念させてもらっておる。無尽の味わいがこのうちにある。如来の生命がこのうちにある。同時に一切衆生の往生がこのうちにある。
 『歎異抄』に縁のある人は
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいゐらせて往生をばとぐるなり」
の聖句を何十年と憶念するがよい。「弥陀」と「誓願不思議」との間に何物もはさまれていない。「誓願不思議」と「たすけられまゐらせて」の間にも、何物も差しはさまれていない。そこのところが有り難い。憶念のうちに信心がある。憶念が信心である、念佛である。「念佛は則ち是れ南無阿弥陀佛」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)

2023年3月25日土曜日

大悲の家に相住まい

 女は三界に家無しというが女だけでない、念佛の行者も三界に家なしである。否、三千大千世界に、一定の家というては無い。如来の光明裡が家である。本願力のはたらきが家である。名号の功徳大宝海が家である。苦しみと、楽しさとは問うところではない。度すべき衆生の居るところが家である。それが大悲の家である。
 命が終わるまで待たずに、早や今から大悲の家に如来と相住まい、共働きである。それを常行大悲の益という。これでこそ真宗が佛法中の佛法であると言える。

 安心の上で心の落ち着き場所といえば、如来本願の「よびごえ」が、私の心の落処である。この外、心の落ち着く場所はない。
 この五尺の身は日々苦惱の娑婆の苦しみを嘗めつつあるが、如来の「よびごえ」の中から、お浄土が覗き見られる心地がする。如来の願力に、はからわれて、命終われば安養の浄土。この如来の願力こそ、私の心の落ち着き場所である。
 これは一時の宿屋ではない。法身常住のいのちの続く限り、かわることのない我が家である。如来の無量寿と無量光の家に、如来と相住まい。これほど楽しい家はない。生死の嵐も罪業の津波も、この家には寄せつけぬ。いつも無上の大楽を味わうのである。
 さりとて、迷いの世界には苦悩の群生が居る。その中へ、無量寿・無量光の着物を被て飛び込んでゆく。もはや火にも焼けず、水に溺れることなき身であれば、思いのまま衆生済度ができる。苦しみの中の楽しみというのは是れである。

 佛法の上からは、苦楽を超えて、本願力のまにまに、火の中へでも水の中へでも飛び込んでゆく仕事が、それが永久の家であり、落ち着き場所である。
 念佛行者はこの仕事をすでにいただいて、ぼつぼつ身に合うただけ、今日からさせてもらうておる。これがまた、何とも言えぬ楽しみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年3月20日月曜日

落ち着き場所

 佛法を聞いたものは、どこに落ち着くか。
 この娑婆も五十年乃至百年の宿屋住まい。お浄土へ参っても、直ぐに還相回向の如来の願力に乗じてまた穢国に還り来たり、衆生済度に忙しい。
 所詮、無常火宅のこの世も一場の夢。苦しい夢であれば、さのみ望みを掛けるところではない。往生するのは法性常楽の楽しみがあるが、生死海に浮きつ沈みつしておる衆生がある限り、自分独り楽しい生活をしておることができぬ。生死の海に飛び込んで、一切衆生と共に苦しみ、苦しみつつ衆生を佛道に入れなければ、大悲心が収まらぬ。
 如来は涅槃に住しておると同時に、生死の中ではたらくのが如来である。

 そういうことであるならば、佛法者は何時どこに落ち着く所とては無い。
 如来は、本願力と共に、落ち着き場所も定めず、久遠の昔から未来永劫の末かけて、法界を到る所、残る隈もなく駈けめぐっておられる。
 光明住まいの我等とても、如来の行きたもうところへ行き、如来のはたらきをはたらきとする身であれば、如来様が落ち着き場の無いのと同じく、我等もまた落ち着き場の無いものである。落ち着き場を持たぬ落ち着き方といえば、また格別の味がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年3月17日金曜日

誓願不思議

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」

 この一句の外に佛法なし、私の助かる法なしと思って真剣になると、如来様の大慈悲心が凡夫の心に映って下さる、これがよくよくのお慈悲である。これが分かれば、分かったので助かるに非ず、南無阿弥陀佛! 如来の不可思議の誓願力で助かるのである。

 南無阿弥陀佛は如来様である。それは親鸞聖人が八十四歳の時、お書きあそばされた六字名号には下に蓮台が描かれてある。これは南無阿弥陀佛を如来様として礼拝されたことを示しておる。
 口に浮かぶお念佛も如来様がお出まし下されたのである。何十年まわり路をして、帰ってくるところは元の南無阿弥陀佛である。

 この「誓願不思議」、「極楽の道は一すじ 南無阿弥陀」が分かったら、忘れていても、悪業煩悩が如何に逆巻いても、また、ありがたい思いが起こり、念佛が称えられても、極楽に参れそうになっても、それらのものにて助かるに非ず、「南無阿弥陀佛の佛智の不思議」で助かる、ということが有り難くいただける。

 阿弥陀様は不可思議光如来である。南無阿弥陀佛の不可思議の誓願力の前には煩悩は全滅だ。世界は全滅だ。今までの心も、今までの身も、はからいも、疑いも、善も悪も何もかも全滅だ。一旦全滅したものをまた取り出して、とやかく、ごてごて振り回すのでない。
 ただありがたい。ただ忝い。如来様がありがたい。親様なればこそ、世界全滅のまま、お浄土へ連れて行ってくださるのである。それでこそ誓願不思議である。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年3月10日金曜日

佛力一つ

 お釈迦様や阿弥陀如来という佛は、龍樹・天親のごとき大菩薩、七高僧方のごとき大師たちと比べても、それを百万倍も大きくしたほどの御方であって、想像も及ばぬ偉い御方である。悲智円満の大覚者であらせられる。
 その悲智の大海をそのままあらわしたものが本願力であり、南無阿弥陀佛である。その摂取衆生力の光明は、法界に周遍し未来際を尽くすところのものである。
 信心とて、「阿弥陀さまが尊い尊い御方である」と仰がせていただき、常に憶念称讃し奉る以外のものではない。念佛はすなわち南無阿弥陀佛である。
  
  南無阿弥陀佛の本願招喚の勅命、如来の本願力、すなわち大悲の御念力が極楽の道であるのに、こちらの方で「信心を得よう」とかかるものだから、南無阿弥陀佛の本願力に背を向けて逃げ出したことになるのである。
 逃げても逃げても、逃がさぬ親様は、逃ぐるものを追いかけ追いかけ、久遠の昔から追いかけ通しで、

 「極楽の道は一すじ 南無阿弥陀佛 お前の親はここにおるぞ」

と、叫び続けておられるのである。それでも衆生の方は「どうしたらよいか」「どうしたら信ぜられるか」「『このまま』では助かりそうにもない」というのが一般の人の心中である。
 信心は「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」である、どこまでいっても、いつも始めから終わりまで「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」である。

 本願力の南無阿弥陀佛は、そのまま阿弥陀如来の不可思議功徳力であるから、衆生を助ける力がある。助ける力は如来様の方にあるのに、自分がとやかくはからうから、往生を仕損ずるのである。
  「ああそうか」「分かった」「これでよし」「これではいかん」「聞いた」「聞こえた」などと、何十年思いはかろうていても、所詮それは凡夫の思いである。凡夫の思いでは助からぬ。
 如来の誓願不思議、不可思議の誓願力で助けられるのである。南無阿弥陀佛の威神功徳不可思議力で助かるのである。
 助かる法が凡夫で分かるものか。分かったら誓願不思議とは言わぬ。また不可思議の誓願力とも言わぬ。
 不可思議功徳の南無阿弥陀佛親様に遇わせていただいたら、分からぬけれども安心がひとりでにできる。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年3月5日日曜日

生死の苦海ほとりなし

 世は無常火宅、人は罪悪深重のいたずらものである。
 そもそも人間の究極の理想は何か。理想がなければ人間は水上の浮き草でないか。大宇宙の中に蜉蝣のごとき命を以て、一時仮の姿を現しておるあわれな動物は汝でないか。法界の中のどの位置に汝は今居るのであるか。
 そんなことも考えたことがないから、常に不安と焦燥と恐怖に襲われているのである。常に刹那主義、享楽主義、我利我利主義で日を送っておるのが現代の世相である。
 とかく人生は苦しいものだ。苦しいときにはお念佛が出て下さる。これも御恩である。苦しいときには次の和讃を思い出すがよい。

 「如来の作願をたづぬれば
  苦悩の有情を捨てずして
  回向を首としたまひて
  大悲心をば成就せり」
  
  人間は生きようとしておる。生きよう生きようとしておるのは、ただ人間ばかりではない。草木も、禽獣も、天地間のものは皆、生きよう生きようと努めて、皆死んでゆくのである。また楽を求めて苦から苦に入るのが人間である。
 生きるとはどういうことか、この世に永く生命を保つことであるか、また五欲の奴隷となって幸福の影法師を追い求めて、齷齪することであるか。

 宗教とは何ぞ、現代人の多くは、宗教とは幸福に生きることが宗教である如く考えておる。そんなものは、ほんとうの宗教ではない。
 宗教とは「解脱」である。解脱の要諦は、唯だ「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」である。この一句は佛法の始めであり、また終わりである。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

No.139