2020年7月26日日曜日

本典総序の聖句(一)

 総序の文に曰く、
 「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と。
 瑞劔は三十八歳の夏、恩師桂利劔先生から親しくこの御文を授けられた。宗教多しと雖も、聖句金言多しと雖も、こんなすばらしい聖句は他に見ることが出来ない。

 恩師が、あの朗々たる音声で、厳然として面授せられた時は、さながら大聖釈迦牟尼如来が、大無量寿経をお説きになられた時も、このようであったろうかと思われた。光顔巍巍たる温容と、朗々たる音声、骨髄に徹するものがあった。


 その前の年に父が亡くなっていたが、桂先生に師事してから一ヶ月目に、父が夢に現れて、瑞劔(最三)に告げて曰く、
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
 ・・・最三ここやぞ、これやぞ」
と言って消え去った。

 桂先生に師事すること二十年、一日としてこの聖句を思い出さぬ日はなかった。九十三歳の今日まで、この聖句の御恩を慶び喜び暮らしておる。

稲垣瑞劔師「法雷」第14号(1978年2月発行)

2020年7月21日火曜日

2012(平成24)年8月の行事予定

「子どもが育つ魔法の言葉」

「批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる
 殴られて大きくなった子は 力にたよることをおぼえる
 しかし
 激励をうけた子どもは 自信をおぼえる
 寛容にであった子は 忍耐を   友情を知る子は 親切を
 安心を経験した子は 信頼をおぼえる
 可愛がられ抱きしめられた子どもは 世界中の愛情を感じることをおぼえる」

                          ドロシー・ロー・ノルト
レイチャル・ハリス

      
  • 26日 (日)  1:30~正信偈の写経  2:00~おつとめ  「正信偈法座」

○会員の上野さんと山田さんが葉書を寄贈して下さいました。この場を借りてご報告、御礼申し上げます。

2020年7月16日木曜日

光明てらしてほがらかに

 本典総序にいわく
 「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と。まことに明了である。文字通りである。思いわずろうこと勿かれ、はからい迷うこと勿かれ。

 無碍光のはたらきの外に破闇満願はない。称えてから、信じてからと踏み出すから、千迷道に入るのである。無碍の光明は智慧の光明である。無明の闇は、凡夫の自力ではどうにもこうにもならぬ。

 無明の闇を破する智慧光は太陽の光のごとくここに輝いておるのに、何を思い、何を求めておるのであるか。無碍の光ひとたび我が身を照らしたもうところ、早や如来の摂取光中に在り。何故であるか、我れも知らず、人も知らず、光明独用の天地である。

稲垣瑞劔師「法雷」第14号(1978年2月発行)

2020年7月13日月曜日

2012(平成24)年7月の行事予定

  諸悪莫作〈諸(もろもろ)の悪は作(な)す莫(な)かれ〉
  衆善奉行〈衆(もろもろ)の善は奉(う)け行(おこな)いて〉
  自浄其意〈自(みずか)ら其の意(こころ)を浄(きよ)くせよ〉
  是諸佛教〈是(これ)が諸佛(しょぶつ)の教えなり〉
                                        ー 七佛通誡偈
    (法雷カレンダー 7月の言葉)

「悪をするな」というのは、単なる躾(しつけ)でも心構えでもありません。
  心の声が「悪をするな」と私に命じる。
  それに従うのは私の人間性であって、自ら誇る必要もない。
  悪を慎み善に励み、しかも「〈私がした〉というとらわれ」からも離れる。これが佛の教え、不動の金言(きんげん)である。


  • 7日 (土)  1:30~正信偈の写経  2:00~おつとめ  「正信偈法座」
    • 今回は都合により土曜日に開催いたします。
    • また写経も引き続き行います。どうぞお気軽に!
  • 29日(日)11時前~ 仏具の「お磨き」
    • 初めての方も気兼ねなく、どうぞお越し下さい。

2020年7月7日火曜日

「よびごえ」の原意

 阿弥陀如来の「よびごえ」の元を窺うに、一つには罪悪深重の私がここにおるからである。二つには大悲の本願である。

 八万四千の法門は高いことは高いが、それらは皆「自心の声」である。阿弥陀如来の四十八願は、自心の声では助からぬ愚悪の私どもに喚びかけて下さった御親切なる「よびごえ」である。

 四十八願をつづめた第十八の王願は
 「如来の方で、至心・信楽という宝をお前のために作っておいたから、その宝をもって安養浄土へ生まれて来い」
という「よびごえ」である。
 本願成就した南無阿弥陀佛は、
 「我に汝を助くる「威神功徳不可思議の宝」を汝のためにすでに用意しておいた。その宝が汝を喚んでおるぞ」
と仰せられる。

 南無阿弥陀佛は、無明の闇夜、生死の苦海に沈んでおる私に対する「よびごえ」である。すでに生死海の水を飲んで気絶しておる私を、親なればこそ、喚んで喚んで、喚びさまして下されたのである。喚んで下さることが、必ず助けるという大慈悲力、大誓願力である。凡夫が助かる道は、唯だ喚びさましていただくことのみである。

 「よびごえ」に眼をさまさせていただいたら、あとは親様のお顔「南無阿弥陀佛」を見るばかりである。顔を見てから、親が助けてくれるだろうか、などと思う必要もない。南無阿弥陀佛が親であり、親の顔であり、親の「よびごえ」である。
 
 信心を取ろう取ろうと焦るよりも、夜昼なしに久遠劫来、喚んで喚んで、喚びづめにしておられる親様の大慈悲心のほどを、有り難くいただくがよい。
 教学や哲学もおもしろいが、いざ臨終となれば、親様の「よびごえ」でなくては間に合わぬ。釈迦如来の一代の御説法も、煎じつめたところは、阿弥陀如来の本願力の「よびごえ」一つである。

稲垣瑞劔師「法雷」13号(1978年1月発行)

2020年7月2日木曜日

2012(平成24)年6月の行事予定

いもとせの ちぎりむすびし その日にも
          年波(としなみ)よする 親をわするな    瑞劔
                    (法雷カレンダー 6月の言葉)

 「妹(いも)と背(せ)の契(ちぎ)り」、つまり夫婦の誓いを結ぶ結婚の日であっても、親を忘れてはならない。
 その親とは、寄る年波に老いていく親であり、また、波が寄せるように「見ておるぞ、護っておるぞ、待っておるぞ」と、年々片時も離れたまわぬ大悲のみ親、阿弥陀様です。

 この歌はあるご住職の結婚式に、実際に瑞劔師が贈られたものです。最愛の者と結ばれ、二人の世界に浸(ひた)る若い夫婦を諫(いさ)めると同時に、私を包み込む慈しみの親心に背を向けている、私達すべてを誡(いまし)めておられます。

 忘れてはならぬ、というのは一面窮屈、でもそのお陰で、動物でなく、人間らしくいられる。


  • 10日(日)2時~おつとめ 「正信偈法座」
      • 今回はお勤めの前に30分ほど写経の時間を設けます。
      • 任意参加ですので興味のある方はどうぞ!

No.139