2019年8月27日火曜日

親心

 凡夫は風呂の焚き物にも及ばぬ、値打ちの無いものであるが、如来さまは慈悲の父であり、母である。私を可愛い一人子であると仰せられる。
 ここに信心と往生の秘鍵がある。

 「落とさぬぞよ、必ず助くるぞよ」と仰せられるのは親なるが故である。真心徹到とは親がわかった時である。金剛の信心とは親心がわかったことである。
 親になってみないと親心がわからぬ。そこは親鸞聖人のことばを通して、親と親心を知らせて頂くのである。
 親鸞聖人なく、親鸞聖人のことばなくして、如来と本願力を信知するということはあり得ない。得道の人ここに在り、また何をか疑わんやである。

「法雷」誌 第2号(1977年2月発行)巻頭言

2019年8月16日金曜日

丸々のはだかもの

 多くの人は、阿弥陀様の丸々のお助け、こちらは丸々のはだか、それが気に入らぬと見えて、どう信じたらよいか、どうして信心をいただくのであるかと思い悩む。
 信心を取る力があるならば、そのように思うのも無理からぬことであるが、自分は今臨終の大病人と同様の身でないか。大病人なら丸々はだかでお助けに与らねば仕方あるまい。それ故こちらは丸々のはだかであるというのである。

 丸々のはだかものを丸々そのままで助ける佛様がなければ、「助けなおかぬ」の御本願がなければ、また如来正覚の南無阿弥陀佛が私の往生の証拠であると言うて下さらなかったらどうするつもりであるか。丸々のはだかものをそのまま、「丸々救わねばおかぬ」の大慈悲本願のよびごえがかからなかったら、地団駄踏んで泣かねばなるまい。如来本願のよびごえこそ他の宗教にも、他の佛にもない大慈悲の本願である。そこを正信偈に「建立無上殊勝願、超発希有大弘誓」と仰せられたのである。

 本願はよびごえ、よびごえは本願である。
 またよびごえは南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛はよびごえである。
 よびごえの外に如来なく、如来正覚はない。よびごえの中には、生死即涅槃、煩悩即菩提の如来正覚の大智がこもっている。大智から大慈悲があらわれる。
 またよびごえのうちには大智大悲の無碍の光明のはたらきが、はたらきづめにはたらいていて下さる。その無碍光のはたらきによって、疑い深い散乱放逸、愚痴(智)無智のこの凡夫にも大悲大智のよびごえが徹るのである。

 よびごえがかかっておる、久遠劫来一念一刹那も息むことなく、今も現によびごえがかかっておる。
 よびごえが聞こえたか、よびごえが徹ったか。聞こえた、徹ったすがたがよびごえである。この味わいは何とも云われぬ。これ以上は筆舌の及ぶところではない。行巻に曰く、「帰命は本願招喚の勅命なり」と。知るべきである。

2019年8月1日木曜日

即得往生

 浄土真宗の人は、大無量寿経の第十八願を聞いて、如来のおまこと、よびごえに引かれて往生するぞと思うてよろこぶのである。
 命終わるとき真実報土に往生(難思議往生)させていただくことには間違いないが、命のあるうちに往生させていただく、それを十八願成就文には、「即得往生、住不退転」という。この往生は現生の益であって、現生十種の益の中では「入正定聚の益」である。

 親鸞聖人はこの「即」の字を行巻に釈して曰わく
 「即の言は、願力を聞くに由りて報土の真因決定する時尅の極促を光闡するなり」
と申された。
 龍樹大士は、十住毘婆娑論の第九易行品に、成就文の即得往生の意を述べて、
「人能く是の佛の無量力功徳(南無阿弥陀佛)を念ずれば、即の時必定に入る」
と申された。

 必定と即得とは同じ意味である。親鸞聖人は龍樹大士の「入必定」を正信偈に於て「憶念弥陀佛本願、自然即時入必定」と仰せられた。大無量寿経の十八願成就文と、龍樹菩薩の易行品と、親鸞聖人の正信偈と、一連の文であって、意味は寸分変わらぬ。
 真宗の人はこれを以て、何をどう信じたら、ほんとうに、間違いなく往生することが出来るかと、その証拠の文をうろうろ探す必要はない。この三文を以て腹を決めなくてはならぬ。

 善導大師の二種深信にはこの意を受けて、「彼の願力に乗じて定んで往生を得」と申され、二河譬には「汝一心正念にして直ちに来たれ、我れ能く汝を護らん」と仰せられた。
 うろうろするでない。人は皆死んでから往生(第二次的往生)するとのみ思うて、即得往生(第一次的往生)(正定聚、不退転、入必定)のありがたさを知らぬ。ここは親鸞聖人が力を入れて釈して下さっておるところである。

 どんなにありがたいか、謂く、およびごえが聞こゆるまま早や我等は此の世から光明摂取の身の上である。善導大師は「得生の想を作せ、是の心深信せること金剛の如し」
と申された。源信和尚は「我亦在彼摂取中」と云われた。一たび南無阿弥陀佛のよびごえを聞いたら、よんで下さると共に、早や彼の摂取の中に在る。

 如来のよびごえを私の心で、私の考えで、自力のはからいで翻訳するのでない。ここが極めて大切なところである。安心決定の秘訣はそこだ。よびごえを仰ぎ仰ぎ、仰ぎ切って、常に仰いでいるすがたが「我亦在彼摂取中」である。「得生の想」である。このほかに根もなく葉もなく、花もなく、実もない。驚くほどありがたいことである。

No.139