2022年12月30日金曜日

難思の弘誓

 無常迅速、生死の事大である。佛法復た忻いがたく、真実に願生心のおこること甚難である。浄土に往生することが佛教の本筋であって、釈尊出世の使命もまた実に此処に在る。
 親鸞聖人は『教行信証』の始めに、
 「竊かに以れば、難思の弘誓は難度海を度する大船、
  無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と仰せられ、また『浄土文類聚鈔』の巻頭には、
 「夫れ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す、
  万行円備の嘉号は障りを消し疑いを除く」
とのたもうた。
 これを見よ、これを見よ。聖人がやるせなき慈悲心のありたけをぶちまけて、諸佛如来の心を穿ち、阿弥陀如来の大智海を傾けて、「これに間違いないぞよ」「本願力と無碍の光明一つで助かるぞよ」「凡夫往生は南無阿弥陀佛のひとりばたらきであるぞよ」と、ここに断定し、断言しておられるでないか。この聖句の意味は難しいが、難しくとも、どうでもこうでも、このお意をいただかねばならぬ。難しいというても僅かに二句でないか。親鸞聖人の九十年の御苦労、大慈悲心の結晶がこの二句である。されば、五年かかっても、十年かかっても、この聖句の味わいを味わい得るまで、聞いて聞いて、聞き抜くがよい。

 また親鸞聖人は「和讃」に曰く、
 「無碍光如来の名号と  かの光明智相とは
  無明長夜の闇を破し  衆生の志願をみてたまふ」
と仰せられた。
 これを見よ、これを思え。「阿弥陀如来の名号と無碍の光明のひとりばたらきであるぞよ」と、ちゃんと示されているではないか。ちょろこい見ようではあかん。生死岸頭に立って、これをよくよく拝見するがよい。本願力と光明に眼がつかぬか。南無阿弥陀佛と光明のひとりばたらきに眼がつかぬか。眼がついたら、わき見をせずに、如何なることを聞こうとも、如何なる心が起ころうとも、罪は如何ほど深くとも、障りは如何ほど重くとも、いのちの綱はこれ一つ、と、祖師聖人の聖句に徹底しなければならぬ。

 聖人また和讃に曰く、
 「天親論主は一心に  無碍光に帰命す
  本願力に乗ずれば  報土にいたるとのべたまふ」
 「本願力にあひぬれば  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
と。天親菩薩の一心帰命の御意(おこころ)は、すなわち親鸞聖人の一心帰命である。よき人の仰せに順い、お言葉に順う以外に、往生浄土の道はない。信心決定の秘鍵はここに在る。よき人の仰せに順うのが安心の極意である。
 よき人の仰せに、ただ順う、そのまま順う、赤児になって素直にいただく。これが往生極楽の大道である。無我になって順い、無我に本願力を信ずるを、真実の浄信という。
 凡夫の心や思いを混ぜてはいかん。凡夫が合点したり、割り切れるようなちょろこい佛法ではない。生死の大問題は、そんなことで解決できるものではない。本願力によってのみ解決できるのである。「願力往生」ということを篤と腹に入れるがよい。これが腹に入ったのを、「このまま」というのである。

 「願力往生」は凡夫の世界には無いことである。理知判断ではいかん。諸佛如来の聖道自力の教えにも無いことである。一般佛教の因果の理でも割り切れぬことである。それで「願力不思議」という。また「名号不思議」という。不思議を不思議と信ずる以外に、往生の道は断じて無いのである。
 本願力に眼をつけたならば、往生は易中の易である。佛力に由って往生するからである。信心を早う胸に入れよう、早ういただこうと踏み出したならば、往生は難中の難である。
 一たび人身を失うたならば、万劫にも復た人間に生まれ出ることはできない。これを思え、これを思え。

 どうしてもこうしても、無上浄信の暁に出られぬものは、次の和讃を暗記して、日々にこれを憶念し、日々にこれをくちずさみ、三日間、一週間、一ヶ月、一年、三年、十年と、これを相続するがよい。「念相続せざるゆえ 決定の信を得ざるなり」のことばを忘れずに、そうするがよい。曰く、
 「願力無窮にましませば  罪業深重もおもからず
  佛智無辺にましませば  散乱放逸もすてられず」
 何と尊い、有り難い和讃でないか。この和讃で腹がふくれなければ、ふくれるまで毎日毎日、誦し来たり、誦し去るがよい。そうすれば「願力無窮」に眼がつき、本願力の無限の力と重みがわかり、佛智無辺の底が知られないことが、有り難くいただけるであろう。
 毎日毎夜、三年、五年、十年と誦しておると、お慈悲で、本願力が手強いから、ひょっと気がつくのである。気がついてみれば、ただ和讃の聖句のみが、ただ「よびごえ」のみが、ただ「無碍光如来」のみが、照り耀いてござるのである。

 自分の心のうちをせせっていては、いつまで経っても埒が明かん。如来様に眼をつけ、如来様の無量力功徳に眼をつけさせていただくがよい。如来様の機嫌を取り、御心にかなうように自分の心を繕うのでない。如来様の方から「どうぞ、そのまま来ておくれ」とお願い下されているのである。親様をさがして親様に助けられるのでない。親様の方が私をさがして、親様がお助け下さるのである。行巻に曰く、
 「他力といふは如来の本願力なり」
と。善導大師曰く、
 「一切善悪の凡夫、生を得る者は皆阿弥陀佛の大願業力に乗じて増上縁とせざるは莫し」
と。往生する者は、皆阿弥陀如来の本願力に打ち負かされ、如来様の思し召しのままにせられて往生するのである。帖外和讃に曰く、
 「大願海のうちには    煩悩の波こそなかりけれ
  弘誓のふねにのりぬれば 大悲の風にまかせたり」
 「超世の悲願ききしより  われらは生死の凡夫かは
  有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」
と。阿弥陀如来が、私のために、ようまあ、かかる超世の御本願をおこして下さったことよと慶ぶ次第である。

稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)

2022年12月25日日曜日

業にしばられ業を超える

 地球の上に人間として生まれてきたのが、業の結果であり、同時に人間生活をする業因である。為ようと思って為たことは報いを受けねばならぬ。苦楽の結果が報うてくる。

 人間が業のままに流れていったならば、人間を超えて佛に成ることはできない。
 業のきずなより人間を解放して、佛陀として大自由の境を得せしめ、大悲の活動に入らしめるものは如来の大願業力である。如来の清浄なる業の海に人間の悪業が流れ込んで、同じ一味の浄い水となるのは、本願海の功徳である。

 煩悩邪智の悪水を本願海に流れ込ます力は、凡夫にはない。本願海が、凡夫の悪水を吸い込んで、清浄の水となしたもうのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年12月20日火曜日

自分の心に相手になるな

 自分の心ほど、頑固で手にも足にも負えないものはない。「疑うな」と言えば、ますます疑う。「信ぜよ」と申しつけても、本願力をよう信じない。これほど苦しいことはない。
 自分の心に相手になるから信は獲られぬ。信が獲られてない証拠には、自分の心に相手になって、その土俵から引き下がることができない。
 自分の心が、自分の心に相手にならぬほど難しいことはない。「自分の心に相手にならぬ」とは、いくら相手になったとて、大丈夫、そのようなことで本願力による往生が少しも妨げられるものでないのであるから、「こら、我が心よ、あばれるならいくらでもあばれてみよ、罪を造るのならばいくらでも造ってみよ」と、自分の心にけしかけるが面白い。さすがの心も、その度胸には勝たれぬと見えて、閉口して、心を常のごとくはたらかせて、人生苦楽の生活を、気楽に生活することができる。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年12月15日木曜日

信心とはどんなものか

 信心とはどんなものか。問うことはいくら問うてもよい、と先ずしておくが、その答えを人に聞いて理解したり、合点したり、説明したり、自分の心の中に信心有りや無しやを詮索すると、信心は逃げて行ってしまう。
 信心は、つかんでも悪い、放しても悪い。善いも悪いも、少しも気にかからぬような天地に信心が生きておる。「不可思議」のうちに宿っておる。
 「不可思議」と言うが、何の不可思議か。自分のようなものが助かるのだから不思議である。不思議の本願力が「不思議!」と信ぜられたのだから不思議である。不思議のうちにのみ信心がある。
 本願力の不思議があるから、自分の信心が有ろうが無かろうが、何も問題でない。「何も問題でない」と言うままが如来の本願力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年12月10日土曜日

着物は脱がれぬ

 説教も着物を着ておる。説教師も丸はだかの人は少ない。書物も知識も、凡夫の思いも行いも皆、色衣を着ておる。丸はだかのものは、庭の菊と天上の月ばかりかと思われる。

 人間は丸はだかで生まれてきたのであるが、「おぎゃあ!」の声が、あれが浮世の着物の着始めである。それから、学校へ行く、佛法を聞く、書物を読む。考える、善し悪しを覚える。人を批評し、自分の心を批評し、社会人生を批判する。これが皆着物である。
 一度着物を着ると、どうしてもそれが脱げぬ。それを経験といい、また体験という。善いようなもので悪いものである。
 人間の苦しみは、着物を着るからである。着物を脱げば楽になるのであるが、脱ぐのは墓の中に入ったときか。いやいや墓の中も冷たい暗い処である、怕(こわ)いような気がする。

 生きたまま死んだらよいと思うが、それも難しいことである。または人間の中に交わっていて、脳味噌だけ野か山に捨ててしまうと気楽な生活ができると思うが、それも、そうする人が少ない。 

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年12月5日月曜日

慚愧

 慚愧とは、はじ入ることじゃ。自分に恥じ、他人に羞じ、天に慚じ、地に愧じ、内に恥じ、外に羞じることである。
 これがあるので人間らしい。これがあるので佛法に入る。慚愧があるので佛法の真味が分かり、解脱にも至りうるのである。慚愧よりよいものはない。慚愧が生死の海を渡らせる元手にもなる。
 まあ世間では、善いことをして悪いことをするなと教える。通佛教でもこれを教える。まことにその通りで、その心がけがなくてはならぬ。

 ところで、如来さまの眼から見て、ほんまに善いことだと見られるほどの善いことが何か一つでも出来るであろうか。人間はたまたま善いことをすれば、早やそれを鼻に掛ける。他の人に見てもらいたいと思う、褒めてもらいたいと思う。自慢をする、天狗になる。そうしないまでも、「自分は善いことをした」と内心ひそかに思うておる。「この報いはきっと来るであろう」などと思う。

 人は浅ましいものである、というのはここのことだ。迷いの凡夫として、この浅ましさは取り切れないものじゃ。
 他力の信を仰ぐ身になると、慚愧すらもできない我が身であると深くはじ入る。まあ、これが人間として為すことのできる最上の善であろう。
 かかる人は、人目から見たら善人、我が身に顧みれば「今現に罪悪生死の凡夫、浅ましいもの」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

No.139