2021年3月31日水曜日

信心銘 26

 日本の教育がこれほど普及しておる今日、僧俗共にお聖教を読む人が少ない。お聖教を読まぬと人間の心がますます枯渇する。邪見がますます募る。

 お聖教を拝読すると、不思議なもので、文字から光明を放っておると見えて、何とはなしに霊感がある。これが信者の無体験の体験というべきものであろう。本願力の然らしむるところである。

 瑞劔は「誓願不思議を不思議と信じさせていただく」という。
 不思議とは僧肇の曰く
 「不思議とは、その然る所以を知らずして然るものは不思議なり」
と。
 聖人の曰く

 「いつつの不思議をとくなかに
  佛法不思議にしくぞなき
  佛法不思議といふことは
  弥陀の弘誓になづけたり」

 「三世の諸の如来の出世の正しき本意、
唯だ阿弥陀の不可思議の願を説かんとなり」

と。また歎異抄には「誓願不思議」とあり、信巻には大信心を釈して「不可思議・不可称・不可説の信楽なり」と申されてある。

 不思議を不思議と信ずるということは、凡夫思慮の及ぶところではない。森羅万象は一色一香と雖も凡慮の及ぶところに非ず、佛様が悟られた般若真空の世界はまた百非を絶して不可思議である。

 佛智に即した大慈悲の本願力は、唯だ仰せのままに「不思議なことよ」「忝いことよ」と如来さまにまかせたてまつるべきである。信心は取るのでなくて、仰ぐ世界である。

 佛法を五年や三年聞きかじって、信心を取ろうと思うのはよろしくない。信心を取ろうとせずに、佛とは何ぞ、佛心とは何ぞ、本願とは何ぞ、と根本から聞くとよい。

 お聖教は如来の全身である。拝読すると生ける如来の光明に触れることが出来る。そこで不思議を不思議と信ずることが出来るのである。光明が光明を仰がせてくれる。

 如来の光明は如来の智慧である。智慧には慈悲が裏付けられてある。如来の智慧のあらわれが南無阿弥陀佛である。どちらも一つもので生命がある。聖人は力を込めて仰せられた。
 「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と。

 「無碍の光明」には、また「難思の弘誓」というて如来の本願力が添うておる。衆生の悪業煩悩が亡ぼされて、信心を獲得するのは全く如来の光明・名号のはたらきである。

 聖人は仰せられる。「本願なるが故に助かるのである。本願力なるが故に往生するのである。光明によりて無明の闇が破せられるのである。名号の德によりて信心を得るのである」と。

稲垣瑞劔師「法雷」第26号(1979年2月発行)

2021年3月25日木曜日

統一眼(二)

 真宗で言えば、統一眼を養う根本は二種深信である。
 二種深信というのは、機の深信と法の深信である。機の深信というのは「無有出離之縁の機(自分)である」と深信することである。法の深信というのは、「疑いなく慮りなく、彼の願力に乗じて定んで往生を得」と深信することである。

 平たく言えば、「どうしても助からぬ」と信じ、同時に「どうしても助かる」と信ずる信心を、二種深信という。
 二種深信は、一信心の二面観であるから、前後はない、同時同一である。「機中に法あり、法中に機あり」である。

 二種深信の眼で二河白道をいただき、六字釈をいただき、また和讃や御文章をいただくがよい。教行信証もまた、二種深信の眼でいただくと分かり易い。歎異抄もそうだ。天親菩薩の「一心帰命」も、御文章の「弥陀たのむ」も、二種深信と同一である。

 如来さまが衆生を救いたもう至心・信楽・欲生の三心は、行者のいただく帰命の一心である。親のものは子供のものである。これが統一眼である。

 科学でも哲学でも、世界中の一切の宗教でも、凡夫が生死を離れて、無上涅槃を得る道は、浄土真宗より外にはない。
 智慧でも修行でも、いかなる方法を用いても、思うても考えても、説教を聞いても、「凡夫はどうしても助からぬ」ということが徹底していないものだから、せっかくの無上の妙法が死んでしまう。

 佛教の門を叩いて、最初にして最後の問題は、「出離の縁有ること無し」と善導大師が仰せられ、「とても地獄は一定すみかぞかし」と親鸞聖人が仰せられた。唯だこの一点について徹底したところが機の深信であり、法の深信である。

稲垣瑞劔師「法雷」第25号(1979年1月発行)

2021年3月19日金曜日

統一眼

 他の宗教のように、神話かお伽噺に近いような簡単な宗教であれば、統一眼もなくてもよいかも知れぬが、大乗佛教のような大きな宗教、奥深い宗教になれば、統一眼を養うことが大切である。
 統一眼なくしては、説教を聞いても、書物を読んでも、重箱の隅をほじくるようなことに終わってしまう。

 聖道門を窺うとき、どのような統一眼がなければならぬかといえば、般若心経の「色即是空」である。これが大乗佛教の根本原理である。
 この根本原理から、華厳・天台・真言・禅などの教義が生まれてくる。無我や無分別の悟りというも、この原理が身に付いたまでのことだ。

 また「色即是空 空即是色」から、天台の空・仮・中の三諦円融の思想も生まれる。
 人間の哲学思想は、これが最高峰で、これ以上には出られぬ。これが分からなければ大乗佛教は根本的に分からぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第25号(1979年1月発行)

2021年3月13日土曜日

信心銘 24

 「悪いことをすれば悪い報いが来る」という業道自然のこの厳粛な法則があるのに、それが信ぜられぬという人は佛法を聞く資格のない人である。

 賢い人でも無常は分からぬ。平生は知らぬ顔の頬被りである。本当に無常を知っているのは、死刑の宣告を受けた人か、重病人で死ぬる前に黒血を吐いてそれを見た時くらいであろう。

 親鸞聖人は生死出べき道を真剣に求められた。今日の吾等も生死出べき道を真剣に求めてこそ、信心決定の暁に出ることができるのである。人真似ではあかん。

 本願なるが故に、本願力なるが故に、助からぬ私が助かるのである。このほかに説教も聴聞も、信心も往生もない。

 本願なるが故に、本願力なるが故に。これを思え、これを思え。深く思念して何十年でも苦労して、これをよくよく味わうがよい。味わったらそれが信心というものである。

稲垣瑞劔師「法雷」第24号(1978年12月発行)

2021年3月6日土曜日

教行信証拝読記(17)

   259 如来様の智慧は、大宇宙(法界)の絶対真理(真如法性)と合一したる「大智」である。宇宙万物の根本真理そのままの「真智」である。天地万物を創ったという神の知慧とは、舞台が違う。

  260 「真智」から「権智」が出る。権智に依って一切衆生が苦海に沈淪しておるすがたを御覧になって、「大悲」を発し、「大悲の本願」を建てられた。他の宗教では「神は愛なり」というが、愛と智慧との関係は不明瞭である。

  261 他の宗教には「禅定」が無い。禅定の無い宗教は、説くこと、言うこと、凡夫の相対的分別、相対的知識に止まって、絶対界の風光は、微塵も之を語ることができない。
 釈迦如来は「禅定」の完成者である。禅定の完成者は、三世の諸佛である。吾等の世界における完成者は、釈迦如来御一人である。高僧方は禅定の分証者である。あるいは佛の権化である。

  262   比較宗教学という学問もあり、キリスト教にも新教と旧教の争いがあり、佛教部内でも自力と他力の争いは絶えぬ。
 「教・行・信・証」の「証」の世界に入れば、「真実の証」は真如法性の世界であるから、すべてが平等一味である。これを「第一義諦」といい、また「真諦」という。現象差別の世界は、これを「俗諦」という。
 禅定を少し学ぶと、平等一味の真理の世界があるということが分かる。真宗の人も第一義諦の話を、少し聞いておくがよい。曇鸞大師は阿弥陀如来の浄土を「第一義諦妙境界相」と申された。

 263 山川草木、山河大地といった、人間が見る世界、考える世界は、皆これは相対界である。「この万物を一まとめにしたらそれは何か」という問題、「万物そのものは何か」という問題を出して、その答えというのが第一義諦である。
 禅宗でいうと、「万法 一に帰す、一 いずれの処にか帰す」(碧巌録)と問い掛けて、正しい答えが出たら、それが第一義諦である。
 また『大乗起信論』でいえば、「真如とは一法界の大総相、法門の体、いわゆる心性不生不滅なり」とある。不生不滅なる心性が、第一義諦である。法門(佛性)の体が、第一義諦である。万物の総和が、第一義諦である。真如が、第一義諦である。

 弥陀の浄土は、三種荘厳の浄土のままが、第一義諦の絶対の真理である。ゆえに浄土のことを「第一義諦妙境界相」という。浄土が第一義諦妙境界相なるがゆえに、教行信証は、第一義諦の真理の上に立てられた法門である。
 曇鸞大師は、念佛往生は実相の法を聞信するのであるから下品下生の凡夫も往生するのである、と釈された。この「実相の法」というのが、第一義諦の南無阿弥陀佛のことである。

稲垣瑞劔師「法雷」第23号(1978年11月発行)

No.139