2020年10月31日土曜日

娑婆永劫の苦をすてて

 佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。

 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておることが大切である。とかくこの世は苦が多過ぎる。また余りに強烈である。一生の勤苦は須臾の間である。

南無阿弥陀佛 九十三歳

稲垣瑞劔師「法雷」第17号(1978年5月発行)

2020年10月23日金曜日

如来親様の大悲

 阿弥陀さまは大悲の親様である。大悲には大智が添うておる。大智大悲のやるせないおこころが声にあらわれたものが「本願名号のよびごえ」である。声には心があり、光があり、智慧があり、力がある。よびごえはどういう声であるかというと、

 「南無阿弥陀佛 落としはせぬぞ、助くるぞ。唯だ助くるぞ、おれにまかしてくれ、おれに助けさせてくれ」

と仰せられる。ここで親様の大悲がわからぬか。如来さまのお不思議が不思議といただけるでないか。

 ただ助けて下さる。

 ただ助けるぞと仰せ下さる。

 ただのお助け。これほどありがたいことはない。これほど忝いことはない。
 この「ただ」が何十年聴聞してもわからぬ。「ただ」のお助けなるが故に、これほど易いことはないのであるが、自力執心の凡夫には、これほどむつかしいことはない。それ故「極難信」とも、「世間難信之法」とも、「真実の浄信億劫にも獲叵し」とも仰せられる。

  ただよんで

  ただ南無阿弥陀佛のよびごえひとつで

  ただ如来の誓願力ひとつで

  ただ如来の無碍の光明ひとつで

  ただ如来の大慈悲力ひとつで

  ただ如来の摂取衆生力ひとつでお助け下さるのである。

  助けて下さるのは如来さま、落ちるのは私。

  落ちる私を親様なればこそよんで必ず助けて下さる。

  弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならず、わたしける。

稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)

2020年10月15日木曜日

信心銘(16)その二

  • この世の利益幸福を求めて神信心する人は皆迷信である。生死を離れる道を求めて聴聞する人は、やがて信心歓喜の暁に出られるであろう。凡夫の思いが何になる、自分が知ったとてそれが何になる。自分の心をせせって佛様を見ぬ、あかんあかん。

  • 信心いただいたと思うたことも幾千べん、つぶれたことも幾千べん。幾たびか思い返して変わるらん、頼みがたきは我がこころかな。念佛でも信心でも、何ぞして参ろうと思う心は皆自力、何にも出来ぬおろかものと思われぬか。往生は如来さまのおはからいである。

  • 佛法は耳で聞くか身で聞くか、心で聞くか我れが聞くか、永々の光明のお育てによりて聞かせてもらうのである。
  • 三十年聴聞するよりも、三十年かかって信心のある良き師匠を探せ。師匠の一言、山よりも重く、千金よりも尊し。

  • 尽十方無碍光如来様様は、我らがための真実功徳のかたまりである。始めて我らが信じて参るのではない。無碍光如来に帰命するところ、これすなわちまことの信心である。

  • 先生も不親切、同行も不熱心、これでは佛法はだんだん衰えるばかりである。

  • 聖人の大人格を仰ぎ、佛陀の前に恭敬の頭を垂るるとき、求むるもの皆満足す。これが始めの終わりなり。

  • 大道を 歩むすがた(聖人)を ながむれば 心配もなし 安心もなし

稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)

 

2020年10月7日水曜日

信心銘(16)その一

  • 佛様は尊い、この一事がわからなければ万巻の書を読み、何十年の聴聞も、すべて水の泡である。佛法と浮世とは訳が違う、佛法は生死解脱の一大事、この世の知恵も力も何の役にも立たぬ。

  • 自分は思うておる、知っておるではあかん、凡夫としてはそらごと、たわごと、まことあることなし。往生の一段には凡夫の善悪なし、この世八十年の人生には善悪あり。ここのところをよくわきまえよ。

  • 「ほっておいてくれと言われたとてほっておかれぬ親心、どうぞ私に助けさせておくれ」と親様が仰せられる。今死ぬるとなったら聞いたことが役に立つか、聞かぬ昔のまま「待ってござる」親の許に呼びつけられるのである。 

  • 何を聞いたかと問われたら、「何にも聞いておりません、阿弥陀さまはありがたいですなあ」と何で言わんか。どの師匠からどういう事を聞いたか、返事が出来ぬようなことではあかんぞよ、あかんぞよ。
 
  • 自分が直ちに本願名号を信じようとしても、おおかたそれは駄目である。高僧方の人格に触れ、そのお言葉を信じてこそ本願名号は信ぜられるものである。

  • そのまま来たれの勅命をそのまま聞いて、いや、聞いてじゃない、声に引かれて参るのである。いつもよびごえ、いつもお助け、あらありがたやありがたや。

稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)

No.139