2023年6月30日金曜日

歓喜讃慶㈠

一、法界の真理と諸佛如来の智慧は、弥陀一佛に集まっておる。一切の善は六時の嘉号に摂まっておる。阿弥陀様はありがたい。

二、私をよんでくださる勅命は、大智大悲の親の生の声である。「よびごえ」のうちに私の助かるいわれがある。阿弥陀様はありがたい。

三、絶望と、苦しみのどん底にも歓喜と希望が光っておる。阿弥陀様はありがたい。

四、早や生死の大海を超断して、光明裡の生活に入っておる。阿弥陀様はありがたい。

五、本願は喩えば太虚空の如し。無辺の妙功徳を具しておる。願力不思議の前には、善も要にあらず、悪もおそれなし。お浄土参りには何の支度も準備もいらぬ。「ただ」の「ただ」である。自分の信心と如来のお助けと取引勘定をするのではない。阿弥陀様はありがたい。

六、如来はすなわち真実功徳相であり、誓願の尊号またこれ真実功徳相である。阿弥陀様はありがたい。

七、一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得る。阿弥陀様はありがたい。

八、如来様は私が罪業深重、散乱放逸の凡夫たることを深信せしめたまい、驕慢の鎧を摧(くだ)きたもう。阿弥陀様はありがたい。

九、迷信の魔軍を退け、疑いの雲霧を散じ、信心の智慧を回施したもう。阿弥陀様はありがたい。

十、生死の苦海より私を救い出し、涅槃常楽の大希望を抱かせてくださる。阿弥陀様はありがたい。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年6月25日日曜日

佛智の不思議

 極楽は、阿弥陀如来の大悲心の世界であり、みやこであり、如来のこころ、如来のさとり、如来の身のうちである。
 極楽に参るということは、如来正覚の華より化生して、如来様と同じ一つの身にしていただくことである。
 罪咎(つみとが)をかかえた凡夫がこのままで、この幸せを本願力一つで得させてもらうのである。この不可思議の本願力、この不可思議の佛智、大悲が、どうして凡夫の頭に、なるほどそうですかと、納得が行くか。行きそうなことがない。それが不可思議に如来廻向によりて信じさせていただいたのである。
 浄土教の往生は、凡夫から見れば理屈に合わぬ。それは凡夫の智力が足らないがためである。でも心を静かにして、よくよく聴聞すると、如来の方では、少しも無理がない。
 如来様は不思議な方である。不思議で有り難い親である。凡夫をそのまま助ける本願力の威大さは、とてもとても、凡夫の心や言葉の及ぶところではない。
 釈迦如来の金言、高僧方のお言葉を、そのままにいただき、そのお言葉を何十年もかかって味わっておると、道理の上から不思議不思議ということになる。不思議であるが信ぜられる。これまた不思議である。

 佛教の不思議は、無茶を押し付けるような宗教で言う不思議とは違っておる。真理の上の真理、凡夫の智慧の及ばない奥の奥の真理であるから、凡夫には分からぬけれども、お経に書いてある通り事実としてあらわれる。その事実としてあらわれてくださる奥には本願力の不思議がある、佛智の不思議がある。

 佛智の不思議を信ずるのが往生のたねである。本願力を信ずるのが往生の因である。それが信ぜられないでいて、機の受け方がどうのこうのと言うてみたところで始まらぬ話である。また何月何日に信をいただいた覚えの無いような信心ではだめだといったことも、信心を取りたがる人、信心を取った気持ちに早くなりたがる人、まあその辺の人の言うことは当てにはならぬ。
 要は佛智の不思議が信ぜられ、本願力が信ぜられたらよいのであって、後のごちゃごちゃしたことをごじゃごじゃ言うのは、人を惑わすいたずらもののする仕事である。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年6月20日火曜日

法を聞く身に育てられ

  罪業深重・散乱放逸も重からず、捨てられず、と深く信じさせていただいたのは、全く願力無窮のおかげであり、佛智無辺の賜物である。これを「本願一乗絶対不二の教」といい、「本願力の独立」といい、「佛智即行」ともいう。
 絶対不二の教の外に絶対不二の機(金剛の信心)は無い。法そのままの機、機そのままが法である。機中法あり、法中機ありとはここのところを言ったのである。

 南無阿弥陀佛が生き生きとしていて、はたらいて下さるすがたは、この私が宿善到来して、

 願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
 佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず

のお言葉を、仰ぐことのできないのに仰がせていただき、安心のならぬのに安心させていただいたこと、そのことが南無阿弥陀佛のはたらきであって、生き生きとしてはたらいて下さるところである。
 これが何でもないようなことであるが、なかなかこのように仰がせていただけるものでない。そこで聖人は「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せられたのである。

 この和讃の一句をくれぐれも、よう味うて下されや。この一首の味わいが、不思議不思議、忝い、有り難い、勿体ないことよと味わえないのであれば、外のことも、知ることは知っても、真から味わえる言葉は一句もあるまい。もとの幼稚園から出なおしだ。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年6月15日木曜日

何一つ加えるものなし

 後生のことは、高僧方の人格、祖師聖人の人格をよくよく考えてみて、そのお言葉を、そのままいただけば、すぐに解決する。これを忘れて、やれ機の受け方はどうじゃこうじゃと、いくら穿鑿しても、真実の信心に住することはなかろう。
 いつ思い出しても佛語を仰いで、忝いと思う、その思いが臨終まで通るものである。臨終まで通る信心が、それがほんまの信心である。「もう自分は入信した」とか「もうあなたは入信された」とかいって、信心が昔に済んだことのように思うている人は、それは信心ではない。信心は生きておる。いつでも生き生きとして、はたらいて下さる。

 信心が生きてはたらいて下さるというのは、南無阿弥陀佛様が生きてはたらいていて下さるからである。
 南無阿弥陀佛のはたらき(行)を信ずる。南無阿弥陀佛を信ずるというが、南無阿弥陀佛の外に「信ずる心」が別にあるのではない。南無阿弥陀佛が流れて私の信心となる。南無阿弥陀佛のはたらきが私の信心である。
 南無阿弥陀佛に何一つ加えるものもなければ、減ずるものもない。この行信に帰命するところ摂取不捨の利益にあずけしめたもうのである。
 信ずるものと信ぜられるものと二体あるのでない。一体のうちに行信がある。それでこそ機法一体といわれる。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年6月10日土曜日

無碍光の利益にて

 凡夫は「我」と「我ならざるもの」とが、どうしても一つに見えない、また一つに思われない。ゆえに無明煩悩が尽きる時がない。「自身は現に罪悪生死の凡夫」とは、ここのところを言ったものである。

 佛は心の波をしずめ切った人であるから、自己と一切衆生とを二つに見ない。「我」と「我ならざる」草木国土とをちがったものと御覧にならない。
 そうなれば大したもので、無明煩悩の汚れは少しも無く、心は清浄真実になり切って、大智大悲の光明が自然に出てくる。光明は如来の活動である。
 その光明が行であり、本願であり、名号であり、勅命である。我等は如来の光明によりて救われる。ゆえに聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と仰せになられた。

 雄渾無比の宗教、凡夫超証の妙法は真宗である。往生また何をか疑わん。皆斉しく願力自然に引かれて往生するのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年6月5日月曜日

信心の中に生活がある

 禅宗では「さとり」が中心であり、いのちである。真宗では「信心」が中心であり、いのちである。
 今日宗教界を眺めると、中心を離れて、法門と宗教政治と、自坊の生活ということに流れているように見受けられる。これは情けないことである。信心に徹底せずして、妻子を持ち、肉を食うているのは、それは主客を顛倒しておるものである。これが末代の悲しい有様であろうか。

 真宗の信心は、その体、佛智なるが故に、大悲なるが故に、如来のまことなるが故に、それは必ず道徳生活にあらわれる。そのあらわれたところが俗諦である。
 信心の中に俗諦に出る力がこもっている。これが不思議である。ありがたいことである。信心の徳として俗諦が守られる。佛力によるものである。俗諦が守られないようでは佛法に瑕が付くと思って、否でも応でも努力し、精進して道徳を厳粛に守るよう心掛けねばならぬ。
 安心については、ただ佛力一つ、本願力一つである。凡夫のはからいは少しでもあってはならぬ。しかしこの世の生活では大いに努力して、世間の人から指を指されるような振る舞いがあってはならぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

No.139