2022年4月28日木曜日

宝珠(ほうじゅ)の燈炬(とうこ)

 佛様とはどういう御方かといえば、八万四千の煩悩が一つ残らず無くなって、心は鏡のごとく波が一つも立たぬようになり、智慧は法界の実相を実相のごとく了悟しておられる御方が、佛である。
 上のような心境から大慈悲心があらわれ、大慈悲と佛智とがはたらいて本願をおこされ、本願が成就して南無阿弥陀佛という佛に、また成られるのである。
 南無阿弥陀佛を聞くということは、如来の大慈悲心を聞かせていただくことである。どういう風に聞くかというと、南無阿弥陀佛が「よびごえ」となってくださるから、私の心にいただかれるのである。よんでくださるから参られるのである。そこに腹の据わったのを、信心獲得したというのである。


  毎朝毎晩、二六時中ほとんど絶ゆるひまなく、佛様佛様と思うことである。阿弥陀如来とお釈迦様、佛様のおかげで生死を出ずることが出来るのである。
 世の人も皆一様に、佛がどんなにか尊い、ありがたい、えらい、親しい、懐かしい、忝い御方であるということが分かればよいのに、それがどうしたら分かってくれるだろうかと念願する次第である。
  

 道(みち)を以て交わる友は、何年経っても離れることはないが、利(り)を以て交わる友は、利益が無くなると直ぐ離れて、昨日の友は今日の仇(あだ)となる。こういうことが分かるのは真の佛法者のみではなかろうか。


 佛教を信じておる人は好んで佛の教えを聞く。佛様の教えを聞いて、その通り行動しておれば言うことはない。佛教は人を誤らさないものである。


 真の佛法者は、最初五分間逢ったときの態度と、何十年後に逢ったときと少しも変わらぬものである。何故かといえば、その人は常に如来さまの前で行動する人であるからである。


 自分の心を打ち明ける人が無いということは淋しいことである。そうかといって誰にでも打ち明けたら、直ぐそれが自分の仇となる場合が多い。自分を知ってくれる人が世の中に一人でも二人でも居ったら、その人は幸福である。
 実際人多き世ではあるが、ほんとうに自分を知っていてくれる人は、親と子供と、佛教の師匠くらいであろう。その他に自分を知ってくれる人は、自分が多年手引きした佛教の信者である。
 その他にもう一人ある。それは如来さまである。親鸞聖人である。まあ、これだけの人に知っていただいたら、全世界の人が自分を知らなくとも少しも淋しいことはない。


 聖徳太子様も達磨さんも、毒殺されたという言い伝えがある。法然上人も親鸞聖人も御流罪に遭われた。そのことを思うたら、末代の我らが人に苦しめられるくらいのことは何でもないことである。

 親鸞聖人が御流罪に遭われたときのお言葉が偲ばれる。いわく、
 「抑(そもそも)大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまはずは、我また配所に赴かんや。もし我配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん、これなほ師教の恩致(おんち)なり」
と。われらも常にこのおこころで暮らしましょう。
 
 
 『文類聚鈔』に聖人のたまわく、
 「大悲の願船には清浄の信心を順風と為し、無明の闇夜には功徳の宝珠を大炬と為す」
 何と有難いおことばでないか。功徳の宝珠とは南無阿弥陀佛のことである。清浄の信心と功徳の宝珠とを別のもののように見てはならぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第52号(1981年4月発行)

2022年4月20日水曜日

信心銘

 無学でも貧乏でも、勇みの念佛が自ずからあふれ出る人は、何となくなつかしい。甚深の尊敬に値する。
 お念佛(信心)は人生の全面にあふれ、全面を生かすものである。これが如来の光であり、壽(生命)である。
 無明の闇の中で、光明を味わわせていただくのは、またとないよろこびである。


 夢の世に、夢ならざるものが一つある。それは佛語である。迷いの世の中に迷いならざるものが一つある。それは佛願である。
 信心は、信心の人を通してのみ、佛語を通してのみいただけるのである。

 御同行の中には、学問が無くても、ぼろぼろの着物を着ていても、本願力に打たれ切ったえらい者がいる。敬い、大きに尊ぶべきである。その人は諸佛如来の親友だからである。

 
 孜々として三十年五十年、毎夜遅くまでお聖教に眼をさらしうる人は幸いである。それで人生が安楽に渡られる。

 信心を未だ獲得せずとも、佛教を一生懸命やっておる人には、不可称不可説不可思議の利益がある。 

 佛教を学んで将来伸びる人は、たえず自己の生死の問題を眼中に置いて、業報のおそろしいことに目覚め、根気よく勉学する人である。こういう人は、お経を学んでも眼光紙背に徹し、人が三年かかるところを三ヶ月で成し遂げることが出来る。

 信眼ありとも法眼なき人あり、法眼ありとも信眼なき人がある。信眼なき人は雑学の人に多く、法眼なき人はお聖教を読まぬ人に多い。法眼・信眼ともに具わった人は稀である。桂利劔先生はその人であった。

 僧侶には僧魂というものがある。またあるべきである。これは士魂にも勝る。最高の人格である。佛法において、法を見、法に入り、法に住し、節を曲げざる人である。
 俗に在りて俗塵に染まず、僧にして僧を忘る。ただ眼中有るものは佛法のみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第52号(1981年4月発行)

2022年4月12日火曜日

信心銘

お念佛の中に名号不思議を感知せしめられる。


佛智の不思議、佛智の回向によりて、不思議を不思議と信知せしめられる。


良きにつけ悪しきにつけ、楽しきにつけ苦しきにつけ、如来さまが常に我が身に付いていて下さることを感じさせられる。佛智の御回向まことに忝い。かくて念佛が精み(いさみ)の念佛となる。


お念佛が前か、願力不思議が前か、それはともかくとして、念佛の中に「およびごえ」を聞き、たのもしく思われる。


考えようによると、信心は易いが世渡りは難しい。明日死ぬか、乞食になるか、最悪を覚悟して、しかも今日の一日は、正直・勤勉・親切で、最善を尽くすべきである。


「好きこそものの上手なれ」で、佛法を好きにならぬと、法悦三昧境へは入られぬ。好きになったのが、早や回向の賜物である。


佛法は、頭の中で考えておる間は佛法でない。口で言うのは下の下である。血となり、肉となったのでなくてはほんまものでない。学徒はすべからく、「学」「徳」「信」でやるべきである。「熱」は自ずから生まれてくる。


佛法は法界統一論まで進まなくてはならぬ。釈尊と法蔵菩薩の三昧海には、法界が統一されている。法界統一論の具体的のものは『教行信証』である。お聖教、佛語をもって宇宙人生を統一すべきである。


『教行信証』がわからなければ、佛教の統一がわからぬ。法界は一法身である。「設我得佛十方衆生」は、阿弥陀如来の法界統御のすがたである。


困った時には、その事件をしばらく措いて、一夜 佛法三昧になって、佛法に心身を忘れるがよい。不思議に人生は解決する。お聖教を読んで、解決されない問題はない。


佛法は文字に非ず、理屈に非ず、如来の人格と私の人格との接触(ふれあい)である。如来の人格に打たれ切ったのを信心という。
唯だ佛語を信受するところ感応道交(かんのうどうこう)がある。感応道交は如来救済の原理である。(『法華玄義』)


「信ずる」と言えばこちらから進む言葉であるが、ほんとうの信心は如来の御回向である。南無阿弥陀佛の本願力の「よびごえ」のほかに、信一つも行一つも加えざるは浄土真宗である。


禅宗の人は、禅が有り難くなったら、禅が一先ず手に入ったというものであろう。念佛の人は、念佛の法門がおもしろくなったら、念佛が手に入ったというものであろう。


まず教行信証眼(一乗眼)を作って、しかるのち三経七祖を拝読するがよい。


『和讃』はそのまま『教行信証』と思うべし。『和讃』の研究に三十年かかると思えば『和讃』が粗末にならぬ。それほど研究して味わっても味わっても、滾々として尽きせぬ味わいがある。僧侶にも俗人にも、『和讃』ほどよいものはない。


大信心は、如来大悲の回向であり、如来の三昧海(禅定)は法界の自然である。
一切の法門は三昧海より生まれたものである。お浄土も阿弥陀如来の三昧海よりおこり、智慧海よりおこり、誓願海よりおこったものである。

稲垣瑞劔師『法雷』第51号(1981年3月発行)

2022年4月5日火曜日

真実信心 必具名号

 念佛は結構なものだ、称えておるままが南無阿弥陀佛のはたらき、本願力である。

 称えよ、称えよ、それが如来さまの光明が、はたらいて下さるすがたである。お念佛するところに、ひとりでに「自信教人信」のはたらきがある。

 念佛の功徳は十方に響きわたる。念佛の功徳は如来さまの光明・名号の功徳である。

 我が称へ 我が聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの おやのよびごえ(古歌)

 信と行とは不二不離といって、離すことができない。また離してはならないものである。それで聖人は「専ら斯の行に奉え、唯だ斯の信を崇めよ」と仰せられた。
 法然上人は「信を勧むれば行をおろそかにし、行を勧むれば信心をおろそかにする」といって歎かれた。

 信心は本願力、本願力は信心である。信に徹底したら、そのうちに行がこもっておる。不徹底の信心はあかん。徹底した信心を「信心正因」という。

 当流は昔から「信心正因、称名報恩」という。信心は体であって称名は用(はたらき)である。体は太陽のようなもので、念佛(正定業)は光のようなものである。離すに離されぬ。徹底すれば信と行と不二・不離である。
 不徹底の人は、念佛は報恩行だから称えても称えなくてもどちらでもよいと考える人が多い。それで今日問題が起こっておる。信と行とは、太陽と光のようなものであると思えば問題はない。そのようにいただいたのが信心である。これも二つに離して考えるからいかん。

 念佛は南無阿弥陀佛なり。信心は本願力なり、南無阿弥陀佛なりと考えておればよろしい。

 念佛は、阿弥陀如来の威神功徳不可思議の名号である。名号を諸佛が讃嘆せられた。それが十七願である。それによって今日の衆生がまた名号を聞信して名号を讃嘆する、その声を南無阿弥陀佛という。これが称名である。

 今日我々が称える念佛は、十方に流布する。故に佛行を行ずるのである。また讃嘆の念佛であり、感謝の念佛である。感謝の念佛なるが故に、報恩の念佛となる。 

稲垣瑞劔師「法雷」第50号(1981年2月発行)

No.139