2024年3月20日水曜日

願力一つ

  私は、いくら聞いても、いくら書物を読んでも、思うても、煩悶しても、参れそうなところは、自分に一つも見付からぬ。落ちるより仕方がない。「落ちるより仕方がない」が徹底した時が、「本願力は大きいでなあ」が聞こえてきた時である。

 信心は、自分の力で、自分で極めるものではない。自分としては、理屈も道理もない。阿弥陀さまがお助け下さるから、助かるのである。如来様が「心配するな南無阿弥陀佛」と喚んでくださるから、参られぬ者が参られるのである。そこには道理理屈はない。ただただ如来様の本願力である。
 「心配するな南無阿弥陀佛」ということが「本願力」である。南無阿弥陀佛である。また「本願招喚の勅命」である。
 本願力にて往生するのである。南無阿弥陀佛にて往生するのである。自分の思いでは参られぬ。自分の思いは凡心である、妄念である。本願力は佛心であり、佛智であり、佛力である。信巻に曰く、

 「佛力難思なれば古今も未だ有らず」

と。末代今の世にも不思議なことがあるものだ。不思議の中の不思議は、本願力の不思議である。この私がお浄土へ参らせていただくことである。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2024年3月15日金曜日

このまま㈡

 「信心取って参ろう」「念佛称えて参ろう」「うれしくなって参ろう」「有難くなって参ろう」「よい心になって参ろう」などと、変わり通しの凡夫の心に、何か変わらぬ有難そうなものが出来たら信心を得た証拠であるから、それで参られるであろうと思うているのは大間違いである。
 「心は変わりづめ」「妄念は凡夫の地体」「煩悩具足の凡夫」「落ちるのは私」と腹が極まったら、「有難そうなもの」を見付けようと思わなくてもよいでないか。

 「このまま」と仰せられたら、有難くない「このまま」、腹の立つ「このまま」、欲の出る「このまま」、死にとみない「このまま」、何にも分からぬ「このまま」、地獄へ落ちる「このまま」、生まれた赤児の「このまま」、人間の思いも行いも何にも役に立たぬ「このまま」で、お浄土へ参らせていただくのである。

 そんな「このまま」で、どうして参られるか。参られない、参られないに極まっておる。参られないに極まっておる者を、参らせねばおかぬの「本願力」があるから、参られぬ者が参られるのである。
 そのとき初めて「本願力は大きいでなあ」と、心の底からよろこびが湧いてくる。
 そのとき初めて、「本願力は大きいでなあ」の味わいが味わえるであろう。
 「本願力は大きいでなあ」とは、説教で言う言葉でなく、他人様にさとす言葉でもなく、自分が、今臨終で、聞く力も、信ずる力も、何もかも、力という力は無くなってしまって、真っ暗闇が出てきたとき、お浄土から聞こえてくる如来様の「ことば」である。その声が身にも心にも沁みわたると、

 「本願力は大きいでなあ、私のような愚かものでも、聞いたおぼえのない私でも、信じたおぼえのない私でも参らせていただくとは、有り難い」

と、よろこびのお念佛が、ひとりでに湧いて出てくださる。念佛の声もろともに往生するのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2024年3月10日日曜日

このまま㈠

 「このままやで」
 「変わらんぞよ 変わらんぞよ」

 信心をいただいたら、何ぞ変わったところが出てくるかと思うていたら、そうではなくて、やっぱり昔のように腹も立てば欲も出る。聞かぬ昔と変わったところは少しも無い。

 聞いたおぼえたこころまで、弥陀に取られて丸はだか、はだかでいつも親の前。何十年の聴聞の免状すてて幼稚園、これから先も幼稚園、臨終一念の夕べまで、聞かぬ昔の赤児にて、大般涅槃を超証す。願力不思議、不思議なり。

 信心を得たら、何ぞ変わったところが自分の心のうちに、身の行いのうちに出来て、それが自分に見つかるであろうと思うていたら、そうではなくて、聞かぬ昔の赤児であると気付かせていただいた。
 「このまま」というたら、ほんまに「このまま」、いつでも「このまま」。いかなる時も、いかなる場も、絶対に「このまま」である。「このまま」であったら、地獄へ落ちねばならぬ。左様、地獄へ落ちる「このまま」である。
 「このまま」で何で助かるか。

 「本願力が大きいでなあ」

 「本願力が大きいでなあ」ということは、「落ちるのは私」ということが知られた人のみ、その不可思議なお慈悲に不可思議な佛智が味わい得られるであろう。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2024年3月5日火曜日

み佛に 見られ知られて うれし慚(はずか)し

 言葉には「義」がともなう。人間の言葉には限りがある。しかし佛様の心は無限である。それを「義」という。
 「勅命」は言葉であるが、その言葉は無限の力を持っておる。如来の全体、功徳の全体が生き生きとして、ぴちぴちおどっておる。またそのまま如来の「無碍の光明」なるが故に、私のきたない胸のうち、悪業煩悩の底まで徹ってくださるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年10月発行)

No.139