2023年2月27日月曜日

御念力一つ

 ただ信ずればよい。阿弥陀様は尊いお方であると、ただ信ずればよい。
 その信ずることが出来ないというのは何故であるか。曰く、自分が死ぬるということと、業の報いは恐ろしいということと、もう一つは、佛とはどういうお方であるかということを、よくよく聞かぬからである。
 また本願が自分の機(妄念の凡夫)に相応したる尊さを、しみじみ感ぜぬからである。

 佛様とはどういう御方であるか。それには先ず人間を土台に考えてみると、人間は皆凡夫であって、今現に八万四千の煩悩になやまされ、四苦八苦の苦しみを受けておる憐れな有情である。嫌ではあるが、生死の苦界に迷い出た以上、宿業をどうすることも出来ない。
 その八万四千の煩悩、実は無数無尽の煩悩を、願行を修して、一つ残らず断じてしまったら、どんな人間が生まれてくるであろうか、想像してみるがよい。
 心が清浄真実に成り切ったならば、随って大悲心が生じ、大智の眼が具わる。それが佛である。それが如来である。

 殊に阿弥陀如来は、その大悲大智の眼を以て一切苦悩の有情を御覧になって、「ああ可哀想だ、どうしても如来の念力一つで、一切衆生を救わねばおかぬ」という大悲の本願を発したもうたのである。
 すなわち、阿弥陀如来という親様には「無量力功徳」がある。「威神功徳不可思議の力」がある。こう言えばよく分かるでないか。それが信ぜられぬというのはどうしたものか。
 理屈は分かっても、自分の死と、佛・法・僧の三宝と、因果の真理が分からぬうちは、ほんとうに佛様が分かったとは言えぬ。
 因縁まかせとはいうものの、佛法をよくよく聞いて、深く内に顧み、偽らざる自己のすがたを見る、ということが大切である。
  
 信ずるとは、佛力一つ、佛の誓願力、南無阿弥陀佛一つで助かるという事実より外には無いのであるが、この事実を事実と、心の底から受け取るまでには、なかなか苦労が要る。一生涯の努力を捧げねばならぬ。ちょうど家を建てるのに、土台と足場に骨が折れるようなものである。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年2月20日月曜日

素直になれ

 往生のためには、ただ佛様の無量力功徳を念じて、善悪ともに、浮世の一切のものを見ないがよい。善知識のことばのほかは、世間の人の言葉も聞かぬがよい。覚えたことも皆忘れてしまうがよい。忘れられなければ、「誓願不思議」を憶念し、佛語を思い出してよろこべばよい。
 信心を邪魔するものは、凡夫の智慧である。知っておること、覚えておること、聞いたこと、読んだこと、頭の中で思いはかろうこと、それらが皆邪魔になる。智者や学者は却って往生しがたく、学問のないおろかものは、却って往生しやすい。それは佛語を素直に聞くからである。素直に聞くところに、真心は徹到する。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年2月15日水曜日

親なればこそ

 親は子を憶念する。子は親を憶念する。それで親子である。如来様は衆生を憶念して下さっている。衆生は如来様を憶念する。それで親子である。佛法とてこの外にはない。憶念が信心である。念佛である。南無阿弥陀佛である。
 自分はお浄土へ参られるか、参られぬか、他人に聞かなくとも自分で知れる。憶念がなければ、いくら教義道理をこね回していても駄目である。
 心につねに佛を憶念しておれば、自ずから口に称名が浮かぶ。これを「憶念称名いさみありて」という。

 阿弥陀如来親様がただ一人おられたら、それで満足せねばならぬ。南無阿弥陀佛は親様である。
 ㈠「見てござる」
 ㈡「護ってござる」
 ㈢「待ってござる」

 五十年六十年聴聞しても、いざ臨終となれば、残っておるものは「佛様」と「ありがたい」と思うこころだけである。あらわれて下さるものは、お念佛だけである。往生する人は、皆ひとしく「誓願不思議」に助けられるのである。誓願不思議とは、如来招喚の勅命「およびごえ」である。「南無阿弥陀佛」の招待券で、よばれて帰る親の里、何の遠慮もいるものか。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2023年2月10日金曜日

不思議のはたらき(三)

 世間の人は、如来の智慧をいただく、慈悲をいただく、南無阿弥陀佛をいただく、信心をいただくなどと、まるでリンゴでもいただくように思うているが、佛法のいただき振りはそんなものではない。
 佛法をいただくのは、自分も知らぬのに、そのいただき方も知らぬのに、如来大悲の大きな手で、煩悩あるまま、悪業のあるまま、私を引き掴んで、如来の大善大功徳と一つの水にして下されることである。

 如来様がこの大仕事をなされることを、智慧をいただき、慈悲をいただき、南無阿弥陀佛をいただき、信心をいただいたと申すのである。ただ如来様のお仕事だけのことである。
 如来様は、凡夫往生の大仕事を、こちらから頼まず、求めず、知らざるに、既に成就して下された。そのすがたを南無阿弥陀佛と申すのである。

 南無阿弥陀佛を信ずるというが、信じ方も知らぬのが、我等凡夫である。大悲の願船に乗るというが、その乗り方も分からぬのが愚凡の私である。そこで如来様は、
 「心配するな、乗せて必ず渡すぞよ」
とよんで下さる。この「よびごえ」が南無阿弥陀佛、その「よびごえ」が本願力である。
 本願力の「よびごえ」が、ひとりはたらいていて下さる。そのはたらきが、取りも直さず、私が南無阿弥陀佛を信じ、私が大悲の願船に乗ることである。如来様の大智大悲のはたらきの外に、私の信心もなければ、私の乗り方もない。

 如来様の悲智のはたらきは、久遠の昔からはたらきづめ、よびづめである。私一人の上にはたらき、私一人をよんで下されている。さればこそ、私は如来親様の光明のふところ住居である。

稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)

2023年2月5日日曜日

不思議のはたらき(二)

 凡夫は、いくら佛法を聞いても何ともない。昔の自分と少しも変わらぬ。
 それがそのままお浄土へ参らせていただくのであるから不思議である。いよいよ「このまま」である。
 如来誓願の不思議、名号の不思議が、不思議と分かっての上の「このまま」である。
 それが分からぬ前に「このまま」と言うたところで、「このまま」とはからうておるのである。ほんまの「このまま」は南無阿弥陀佛の不思議から生まれ出るのである。

 「このまま」の味が分かってみれば、これほど強いものはない。この信心は、つぶれる気遣いはない。信心のつぶれるというのは、知った信心、はからいの信心、自分の思いの信心、おぼえた信心であるから、つぶれるのである。
 それらのものに一向に、お構いなく、思わぬ心の底に、入って下された南無阿弥陀佛なれば、つぶすにもつぶされぬ。自分の力で捨てるにも捨てられぬ。身から離そうとしても離すことができぬ。まことに不可思議である。

 うれしい思いが湧いてきたら喜び、有り難いと思うときは有り難く思う。忘れていても往生は間違わぬ。うれしい、悲しい、善い、悪い、知っておる、知らぬ、どんな心が起こっても、空に暴風が吹いているようなもので、心の上の雨風のために、身心の心髄に徹って下された如来大悲の念力の月は、びくともせぬ。雨降らば降れ、風吹かば吹けである。

稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)

No.139