親は子を憶念する。子は親を憶念する。それで親子である。如来様は衆生を憶念して下さっている。衆生は如来様を憶念する。それで親子である。佛法とてこの外にはない。憶念が信心である。念佛である。南無阿弥陀佛である。
自分はお浄土へ参られるか、参られぬか、他人に聞かなくとも自分で知れる。憶念がなければ、いくら教義道理をこね回していても駄目である。
心につねに佛を憶念しておれば、自ずから口に称名が浮かぶ。これを「憶念称名いさみありて」という。
阿弥陀如来親様がただ一人おられたら、それで満足せねばならぬ。南無阿弥陀佛は親様である。
㈠「見てござる」
㈡「護ってござる」
㈢「待ってござる」
五十年六十年聴聞しても、いざ臨終となれば、残っておるものは「佛様」と「ありがたい」と思うこころだけである。あらわれて下さるものは、お念佛だけである。往生する人は、皆ひとしく「誓願不思議」に助けられるのである。誓願不思議とは、如来招喚の勅命「およびごえ」である。「南無阿弥陀佛」の招待券で、よばれて帰る親の里、何の遠慮もいるものか。
稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)
2 件のコメント:
「見てござる」「護ってござる」「待ってござる」
とありますが、誠にありがたい事です。
仏は、見聞知といって、
「見て御座る」「聞いて御座る」「知って御座る」と散々そのように教えられてきましたが、
「見てござる」「護ってござる」「待ってござる」の方が、ありがたいですね。
今教えていただいているご講義では「届いてくださる」とお聞きすることが多いのですが、「待ってござる」というのも味わい深いです。どれほど距離が離れていても「待っておるぞ!」との一声で如来様に掴まれています。
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