2020年3月7日土曜日

2011〈平成23〉年4月発行



4 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

教行信証の信巻に、
西岸の上に人有りて喚うて言く、「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、
衆て水火之難に堕することを畏れざれ」と。・・・
とありました。

それならば、『お前は私のいのちである。私はお前のいのちである。』は、
どこにお聖教の根拠があるのかと考えています。

光瑞寺 さんのコメント...

二河譬は観経三心の釈ですが、その意は大経、ことに第十八願をあらわさんとするものであります。
「貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ」と。
その第十八願では「若不生者 不取正覚」と、衆生往生を賭け物にして弥陀成佛が誓われてあります。

十方衆生が一人でも救われなければ佛と名告らぬ。救わねばならぬその一人のために、わたしは阿弥陀佛となった。そのひとりとはお前だ。お前とわたしとは同生同死、同じボートの乗組員であるぞ。

あるお同行のお宅で、第十八願の平等因果を讃じて「若不生者 不取正覚は宗教の最高峰である」と書かれた瑞劔師の色紙を拝見したことがあります。もう散逸してしまっており、今でも残念に思います。

土見誠輝 さんのコメント...

「一子地」という『涅槃経』の文。

親鸞聖人の浄土和讃にある
「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」

と一昨日前に知識から教えて頂きました。

光瑞寺 さんのコメント...

ほんとうに「一子地」とは忝い親心です。
菩薩の平等心を、このように味わい深く表現して下さっている。お経というのはまったくすごいものです。それを私たちになじみやすいようにして下さっている和讃も。

死の解決㈢

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