2020年3月7日土曜日
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和讃と歎異抄の味わい⑼
六、称名念佛をはげむ人 滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身 (いっぽっしん) の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌...
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「子どもが育つ魔法の言葉」 「批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる 殴られて大きくなった子は 力にたよることをおぼえる しかし 激励をうけた子どもは 自信をおぼえる 寛容にであった子は 忍耐を 友情を知る子は 親切を 安心を経験した子は 信...
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どこの国でも物質文明が進むと、精神文化が衰えるのが通例である。神戸でも今から七十五年ほど前には、毎日説教のある寺が三つあった。いずれも百人以上の参詣人があった。今日では毎日説教のある寺は一ヵ寺もない。この現象は全国的である。 如来さまには無碍の光明がある。この光明の力は、煩悩と菩...
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佛という御方はどういう御方か、佛智はどのくらい深いものか、不思議なものか、本願力はどのくらい力強いものかということが飲み込めると、それがそのまま信心であるが、これが何十年説教を聞いても、しかと合点がゆかぬものであるから、信心は難中の難となってくる。 三部経でも和讃でも、大蔵経...
4 件のコメント:
教行信証の信巻に、
西岸の上に人有りて喚うて言く、「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、
衆て水火之難に堕することを畏れざれ」と。・・・
とありました。
それならば、『お前は私のいのちである。私はお前のいのちである。』は、
どこにお聖教の根拠があるのかと考えています。
二河譬は観経三心の釈ですが、その意は大経、ことに第十八願をあらわさんとするものであります。
「貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ」と。
その第十八願では「若不生者 不取正覚」と、衆生往生を賭け物にして弥陀成佛が誓われてあります。
十方衆生が一人でも救われなければ佛と名告らぬ。救わねばならぬその一人のために、わたしは阿弥陀佛となった。そのひとりとはお前だ。お前とわたしとは同生同死、同じボートの乗組員であるぞ。
あるお同行のお宅で、第十八願の平等因果を讃じて「若不生者 不取正覚は宗教の最高峰である」と書かれた瑞劔師の色紙を拝見したことがあります。もう散逸してしまっており、今でも残念に思います。
「一子地」という『涅槃経』の文。
親鸞聖人の浄土和讃にある
「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」
と一昨日前に知識から教えて頂きました。
ほんとうに「一子地」とは忝い親心です。
菩薩の平等心を、このように味わい深く表現して下さっている。お経というのはまったくすごいものです。それを私たちになじみやすいようにして下さっている和讃も。
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