2023年11月30日木曜日

唯是れ不可思議

 本願力が千両役者である。私は年が寄って病気になって死ぬるだけが私の役である。
 本願力によって凡夫自力の智愚の毒を滅した人は、両手を広げて水の上にポカンと浮いたようなものである。何の心も用いずして、身を忘れ、心を忘れてただ水に浮いておる。気をつかい、心を労し、疑心自力が少しでも残っておると大信海に浮かぶことはできぬ。すなわち如来の大誓願力の薬を飲んだとは言われぬ。

 本願力にまかせば往生は易中の易であるが、智愚の毒が残っておれば往生は難中の難である。「四不十四非」の妙釈を窺って、「行に非ず 善に非ず」「有念に非ず 無念に非ず」の深意に徹するがよい。これは驚くべき言葉である。
 他力廻向の本願力の宗教のみがこれを味わい得るのであって、智愚の毒に囚われている世間普通の倫理的宗教の能く味わい得るところではない。また自身出離の一大事を忘れて、名聞・利養・勝他の念の強い人どもの味わい得るところではない。要は自身出離の道を求むるのが聖人に同心した人と言えよう。

 大信海は「唯是れ不可思議の信楽」である。「鹿を追うものは山を見ず」の言葉のごとく、信心を取ろう取ろうと、信心の鹿を追いかけている人は如来の誓願不思議の山を見ない。したがって「不可思議の信楽なり」と聞いても、どこらが不可思議の信心であるか、不可思議の不可思議たるところが分からぬ。
 「不可思議の信楽」とは「誓願不思議」ということである。誓願不思議なるが故に誓願不思議を信ずる信心もまた不可思議である。
 凡夫として誓願不思議を誓願不思議を信ずることは難中之難である。難中之難なるに、ようまあ、不思議を不思議と信じさせていただいたことよとなれば、信楽また不可思議の信楽である。全く本願力の然らしむるところである。信巻に曰く、

  「佛力難思なれば古今も未だ有らず」

と、また行巻に曰く、

 「豈心に思い口に議るべけんや」

と。和讃に曰く

 「こころもことばもたへたれば 不可思議尊を帰命せよ」

と。凡夫が佛に成ることは不思議じゃ、不思議じゃ。本願力の不思議である。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2023年11月20日月曜日

願力に徹して

 聖人は「願力の信心」を釈して、

「凡そ大信海を按ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女老少を謂はず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず(以上、四不)、行に非ず善に非ず、頓に非ず漸に非ず、定に非ず散に非ず、正観に非ず邪観に非ず、有念に非ず無念に非ず、尋常に非ず臨終に非ず、多念に非ず一念に非ず(以上 十四非)、唯是れ不可思議不可称不可説の信楽なり、乃至 如来誓願の薬(本願力)は能く智愚の毒を滅するなり」

と。願力回向の大信心海は、如来の大智大悲の本願力の自然の風光である。すなわち法性界自爾の顕現である。
 大信海の相は多種多様であるが、多種多様のまま一相無相である。一相無相のところすなわち如来の本願力である。故にその結語として

 「如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅するなり」

と曰う。
 智愚の毒とは凡夫自力の無量の心理現象である。
 凡ての人間の心理学的精神能力は、本願力のいかなるものであるかを知ることはできぬ。
 本願力を、身心を以て学道し、本願力の活動によりて本願力を信知せしめられたとき、初めて本願力を体解することが出来る。その体解は本願力の信知であって、すなわち大信海である。
 大信海は本願力に徹して始めて大信海に入ることができる。本願力が大信海であり、大信海が本願力である。
 一切の凡夫自力の智愚の毒が払拭されて、始めて本願力の虚空を仰ぐことができる。

 「智愚の毒」とは、一切凡夫自力のはからいである。本願力に徹したものは大信海に入り、大信海に入ったものは本願力に徹する。信心と願力とを別見してはならぬ。
 信心によりて往生するということは、本願力にて往生するということである。本願力にて往生するということが本当に有り難くいただけたならば、それが大信心である。


稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2023年11月15日水曜日

お聖教も本願力も生きておる

 お聖教を拝読すると、お聖教が何もかも教えて下さる。お聖教の「ことば」は如来様である。如来の全身である。
 お聖教の「ことば」は、山河大地山川草木と同様、法身佛の光明である。お聖教の「ことば」はまた、阿弥陀如来の悲智円満の本願力そのものである。また近くは親鸞聖人の法身である。それでこそ我等凡夫がお聖教のことばに接すると、お聖教の文字が教えてくれる。
 佛法を説くものは佛法であり、佛法を信ずる心も佛法である、本願力をたのむ信心も本願力である。それでこそ「願力回向の信心」と言われるのである。本願力がはたらいて、私を往生させて下さる外に、私の往生する道はない。
 「よびごえ」も本願力なれば、信心も本願力、往生成佛するのも本願力、往相も本願力なれば、還相も本願力である。二十年、三十年聴聞する人でも、いつしか本願力を忘れて、信心を取ろう取ろうに日を暮らしてしまうのが普通である。

 信心を 取ろう取ろうの 夢さめて 本願力を 仰ぐうれしさ

 浄土真宗の人は、自分が信心を取ろうと自分の方から進んで本願力を探し求め、それを信じたのが信心とばかり考えておるものだから、本願力のはたらきを自分で邪魔をして、信心は得られず、未来の苦患を受けるのである。
 そうではなくて、本願力の如来様、如来様の本願力(大智・大悲心)の方から進んで私をつかみ、私を引っとらえて浄土に往生させてくださるのである。自分の方から進んで本願力を信じようとするのは自力である。本願力の方から進んで私を往生させて下さるのが他力である。
  大信心は如来の佛智の大悲、大悲の佛智の徹到であり、如来の本願力の「まこと」、「まこと」の本願力の映発したものであるから、不可思議の信楽である。凡夫自力の信心ではない。本願力回向の大信海である。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

No.133



 

2023年11月10日金曜日

衆生の志願をみてたまふ

 覚如上人の『執持鈔』に曰く、

 「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」

と。「往生ほどの一大事」とは、露の命を持ち、生死罪濁の身でありながら、下に向かっては生死の苦海を超断し、上に向かっては法性の常楽を証し、大智大悲を身にしめて、無上佛に成る一大事を「往生ほどの一大事」というのである。

 自力聖道門において無上佛に成ろうと思えば、八正道・六波羅蜜の行を修し、深き禅定に入りて、無我無心、無念・不可得の境に体達し、我執と我愛と我慢とを遠離して、般若の空智を得、自他不二、染浄不二、内外不二、色心不二、生死即涅槃、煩悩即菩提の悟りを開かねばならぬ。

 相対界(迷いの世界)に生まれ出で、死に至るまで未だかつて一念一刹那も相対的認識と相対的思惟を離れることのできない我等のごとき凡夫が、どうして佛智大悲の世界である大涅槃に到達することが出来ようか。我等凡夫は、我執のある限り、貪欲・瞋恚の水火二河は常に逆巻き、善心を汚し、清浄心なく、真実心なく、起悪造罪は暴風駛雨に異ならないではないか。

 然るに幸いなるかな、内に真如の内薫を受け、外に聞法することを得て、往生して無上佛に成り、本願力の翼に乗って一切衆生を無上佛にしようとする一大志願を、ようまあ起こさせていただいたことよ。

 この大志願は、よくよくの宿縁なくば容易に起こるものではないが、さてかかる大至願を起こしたものの、どうしてこの志願を満足せしむることができるか。考えねばならぬことはこの一点である。
 志願は最高最大、無上至善であるが、自己の能力はどうであるか。これが凡夫相対的の認識や、相対的の思惟や、相対的の善なる行為を以てして、無上佛という絶対の大智海に悟入することができるか、できないか。その不可能なることは、火を見るより炳らかである。
 理想は高く現実は低い。その理想と現実の間に挟まって、どうにもこうにもすることのできぬ憐れな小動物が人間ではないか。斯く考えてきて、自ずから発せられた教語が、

 「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」

の一句である。

 「ひとすじにまかせたてまつるべし」

とは、如来の本願力の大風に、吹かれ吹かれて往生するより他に道はないではないか、という意味である。
 如来にまかそうと思ってまかされるものではない。「まかした」と思ったところで、それは凡夫自力の思いであって、何の役にも立たぬ。それで蓮如上人も、

 「凡夫の佛に成るこそ不思議なれ」

と仰せられた。

 本願力の大風に 吹かれ吹かれて
   まかすこころも 自然なり

  
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2023年11月5日日曜日

道元禅師と親鸞聖人

 日本が永久に世界に誇ることができる文化は、凡そ三人による三書である。一には弘法大師の『十巻章』があり、二には道元禅師の『正法眼蔵』九十五巻であり、三には親鸞聖人の『教行信証』六巻である。
 いずれも世界第一の宗教書であると同時に、世界第一難解な書物である。これを手にして読み始めるものは牛毛の如くたくさんあるが、その真精神を得て、「生死の大問題」を解決した人は暁天の星の如く少ないのである。
 その理由は、自己の生死の問題とせず、無常の風が何処を吹いておるだろうかといったような顔をしてこれを読むから、文字は分かっても心が分からず、知解分別で分かっても「自己の問題」「生死の問題」が解決できないのである。これでは佛法でもなく、佛道でもない。
 自己を究明し、自己の生死の問題を解決しようと不惜身命で踏み出すのでなければ、これらの書物は分かるものではない。臨済宗で用いられる『臨済録』にしても『碧厳集』十巻にしても同じことである。
 道元禅師の『学道用心集』に曰く、

 「参学識るべし、佛道は思量、分別、卜度、観想、知覚、慧解の外にあり」

と。親鸞聖人の『教行信証』の信巻に曰く、

 「凡そ大信海を按ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女老少を謂はず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず(以上 四不)、行に非ず 善に非ず、頓に非ず 漸に非ず、定に非ず 散に非ず、正観に非ず 邪観に非ず、有念に非ず 無念に非ず、尋常に非ず 臨終に非ず、多念に非ず 一念に非ず(以上 十四非)、唯是れ不可思議不可称不可説の信楽なり、喩へば阿伽陀薬の能く一切の毒を滅するが如し、如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅するなり」

と。「如来誓願の薬」とは如来の本願力である。本願力によりて生死の問題を解決するのである。本願力を聞き、本願力に眼をつけ、本願力を仰ぎ仰ぎて「思量、分別、卜度、観想、知覚、慧解」に渡らず、何ものにも腰を掛けず、唯だ本願力の不思議と信ずるところに、生死を離るるのである。

 念力願力 南無阿弥陀佛 そのはたらきは不思議なり
 はたらくままに われは往くなり (瑞劔)

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

No.139