本願力が千両役者である。私は年が寄って病気になって死ぬるだけが私の役である。
本願力によって凡夫自力の智愚の毒を滅した人は、両手を広げて水の上にポカンと浮いたようなものである。何の心も用いずして、身を忘れ、心を忘れてただ水に浮いておる。気をつかい、心を労し、疑心自力が少しでも残っておると大信海に浮かぶことはできぬ。すなわち如来の大誓願力の薬を飲んだとは言われぬ。
本願力にまかせば往生は易中の易であるが、智愚の毒が残っておれば往生は難中の難である。「四不十四非」の妙釈を窺って、「行に非ず 善に非ず」「有念に非ず 無念に非ず」の深意に徹するがよい。これは驚くべき言葉である。
他力廻向の本願力の宗教のみがこれを味わい得るのであって、智愚の毒に囚われている世間普通の倫理的宗教の能く味わい得るところではない。また自身出離の一大事を忘れて、名聞・利養・勝他の念の強い人どもの味わい得るところではない。要は自身出離の道を求むるのが聖人に同心した人と言えよう。
大信海は「唯是れ不可思議の信楽」である。「鹿を追うものは山を見ず」の言葉のごとく、信心を取ろう取ろうと、信心の鹿を追いかけている人は如来の誓願不思議の山を見ない。したがって「不可思議の信楽なり」と聞いても、どこらが不可思議の信心であるか、不可思議の不可思議たるところが分からぬ。
「不可思議の信楽」とは「誓願不思議」ということである。誓願不思議なるが故に誓願不思議を信ずる信心もまた不可思議である。
凡夫として誓願不思議を誓願不思議を信ずることは難中之難である。難中之難なるに、ようまあ、不思議を不思議と信じさせていただいたことよとなれば、信楽また不可思議の信楽である。全く本願力の然らしむるところである。信巻に曰く、
「佛力難思なれば古今も未だ有らず」
と、また行巻に曰く、
「豈心に思い口に議るべけんや」
と。和讃に曰く
「こころもことばもたへたれば 不可思議尊を帰命せよ」
と。凡夫が佛に成ることは不思議じゃ、不思議じゃ。本願力の不思議である。
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)
2 件のコメント:
「疑心自力が少しでも残っておると」
とあります。
疑心あることなし、「無有疑心」が浄土真宗の「聞」であると教えていただいています。
そのままいただくので、まるままおまかせであります。
行に非ず善に非ず、有無を摧き一切のはからいを滅して「唯是れ」と大信海に直結するところ、実に愚鈍往き易き捷径であります。
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