2024年5月15日水曜日

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。
 真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大自覚を持ってこそ「救われた」と言えるのである。
 今日教えを説く人は教主ではない、聖者ではない。我らと同じく五欲に耽っておる凡愚である。それを思わなくてはならぬ。教師自らもそれを自覚して告白しなくてはならぬ。

 かかる見地に立って世界中の宗教を眺めてみると、悲しい哉、どの宗教も、「神に成れる」という教えはない。「神のみが救い主だ」「絶対者だ」「全智・全能・偏在・愛なり」と、お山の大将を決め込んでいても、罪の子である人間が神に成れないようなことでは、普遍の真理でも平等主義でもない。
 神と人とを隔絶し、永久に牆壁を設けておるような宗教は、宇宙人生を根本的に解決し、人をして解脱に至らしめる能力なき宗教である。

 人間は死んでゆく。同時にその人間は、罪に汚れてはおるが、神のところまでも、佛のところまでも自己を向上せしめ、自己を拡充しなければおかぬという、尊い、無限の大理想を持っておる不思議な動物だ。この聖なる欲求をどうしてくれるのか。
 これを放棄するのは動物に還ることであり、これを抑圧するのは人間理性を冒涜するものである。この欲求を充たしてやる宗教こそ真の宗教でないか。

 信仰すればどうなるのか。その到達点を示さなければつまらんではないか。到達点は神それ自身に成ることだ。佛それ自身に成ることだ。智慧を慈悲とを円満したる覚者になることだ。
 神佛が真理であり、生命であり、自己拡充の絶頂に昇った人であるならば、人間もそのところまで行かねば、真の生命を克ち得たというわけにはゆかぬ。

 「法」は法界に普遍し、万物に貫通しておる。「尽十方界は是れ真実人体」であり、「一顆の明珠」である。神と人との間に根本的隔絶が無いというのが真理である。
 「神に祈れ」と教える宗教には、悲しい哉、神に成る教えがない、道がない。神人合一を物語るが、罪の子が実際神に成ったという前例がない。
 ただ一つ大乗佛教においてのみ、解脱に至る教えがあり、佛陀に成る道がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年5月10日金曜日

死の解決㈢

 禍福吉凶の占い、みくじ、まじない、日の良し悪し、姓名判断、生れ月日などで人間の運命が決るものならば、敗戦や人口増加や、貿易の不振や外交・外敵などで国民全体が苦しんでおるのはどうすのか。宗教は解脱であり、宇宙人生の根本的解決であらねばならぬ。
 善の解決は悪の解決であり、宇宙の解決は肉体の解決であり、肉体の解決は心の解決であり、幸福の解決は不幸の解決であり、生の解決は死の解決であり、また実に宇宙人生を貫く「法」の体解である。誰か「法」と一如になったおらぬか。自分はその人を通じて「法」を聞きたい。「法」そのままの人の声を聞きたい。
 「法」と「人」、「真理」と「慈悲」、それが具体的にあらわれた人のことばは、必ずや光明であろう。光明のことば、温かい光明のことば、智慧の光明、慈悲の光明、温かい光明の真理のみが、今の死を解決して解脱を得させてくれるであろう。

 然り、佛陀の光明のみが、生と死、善と悪、煩悩と菩提、生死と涅槃とを包容し、世界と我と、苦と楽と、幸と不幸と、智慧と愚痴と、一切の相反するものを摧破し、相対の世界を超えて、死にぶつかって悩んでおる人を救い得るのである。
 迷える人を救うのに、迷える人の言葉が何になるか、迷える人の悩みを救うのに「五欲街道」の修理道具が何の役に立つか。覚れる人、真に目覚めた人、相対の迷いの世界を離れて、世を救うために出られた佛陀のみが、本当に死を解決してくれる。

 たくさんの言葉を聞かなくても、一言でもよい、一句でもよい。佛陀のことばは甚深微妙、不可思議の功徳と力がこもってあるのに相違ない。真理と慈悲のことばに違いない。否、佛陀の心も身も、真理であり、法であり、力であり、慈悲であり、智慧であり、光明であり、救いであり、また実に死の淵に沈んでおる人にとって唯一つの大生命であるに違いない。ああ、佛陀世尊に遇いたい。その人に接したい。その人の光明に触れたいものだ。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...