「いくら聞いてもこちらは、ありがたいこともなく、なんともない。ありがとうなられなくとも、それでよろしいか」
なられたらよし、なられなければそれでもよし。お念佛も出ればよし、出なければそれでよし。今、汝は死の床にあるのでないか、死の床に就いている大病人に、注文はせぬぞ。
苦惱の汝を捨てておかれぬのが汝の親である。親は疑いのあるまま「まかせ」とは言わぬ、往生できるとは言わぬ。「どうぞ」とたのめとは言わぬ。
注文とてはお前に、信一つも、行一つもせぬぞ。五劫思惟の本願も、南無阿弥陀佛の正覚の功徳力も、お前のために成就したのである。佛智不思議の正覚の鏡の中に、久遠の昔よりお前の姿が映っておる。大悲の本願の鏡の中に、お前を抱いてかかえておったのである。映ったが最後、どうしても捨てられぬのが、南無阿弥陀佛という汝の親である。如来である。阿弥陀である。
機(自分のこころ)を繕うて、信心取って、安心してから往生するのでない。聞いたとも、聞こえたとも、どこを探しても、信心のような味も香りもしない。
元の凡夫を、そのまま、生地のまま、助くるのが、本願力の不思議というものである。名号の不思議、佛智不思議である。
凡夫の思いによって、南無阿弥陀佛がはたらいて下さるものでもなく、安心したから助かるのでもない。ただ是れ「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀佛」である。
本を読んでも、説教を聞いても、凡夫がはたらいている間は地獄行きである。
「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」
と如来様が独りはたらいて下されてこそ、凡夫は助かるのである。
如来の「大悲心」が我が信心、如来の「まこと」が我が往生、如来の大生命が我が生命、如来の功徳が我が功徳であるところを、「佛凡一体」とも「機法一体」とも言うのである。
「絶対不二の法」(南無阿弥陀佛)の外に「絶対不二の機」(金剛の信心)あることなし。
「南無」の機の外に「阿弥陀佛」の法あることなし。
「絶対不二の教(行)」のままが、「絶対不二の機」、すなわち金剛の信心である。これが真宗の面目である。これが本願一乗というものである。
南無阿弥陀佛の「法」があまりに手強く、大悲の誓願力があまりに強烈で、尊いから、凡夫は目をまわして死んだものにしてしまわれる。死骸同然の私が助かるのは全く如来の大誓願力である。
「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」
稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)
2 件のコメント:
「佛凡一体」とも「機法一体」とも言うのである。
「南無」の機の外に「阿弥陀佛」の法あることなし。
とありますが、
蓮如上人の『御文章』第3帖第7通には、
「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。
とあります。
南無阿弥陀佛のうちに私の信じごころも助けるいわれも御成就くださって、機法が一つに融け合って、離れられんようにしてくださった。
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