2021年5月27日木曜日

帰去来(いざいなん)

 善導大師のたまわく
 「到る処に余の楽なし、唯だ愁歎の声を聞く」
 (六道の何処にも楽はない、ただ愁い歎きの声ばかり)
と。言葉は厭世教のように聞こえるが、これが人生の真実のすがたである。

 人生を楽なりといい、楽のみを追い求めておる人間こそ、寝ぼけておるのである。古語に曰く「世の無常 さとりつくして 春彼岸」と。

 人生の苦を苦なりと知る人にして初めて真面目になることが出来る、そこから真剣に佛法の門に入るのである。
 死を思わず、涅槃を求めざるものが、どうして佛心を頂くことが出来ようか。
 苦しみをしみじみとなめてこそ、この苦悩の私を捨てずして、私のためにおこして下さった御本願であると頂けるのである。

 人間は、煩悩と苦しみの他には何も無い動物である。それをそのまま、まるまるお助け下さる大悲の親様が有り難い。

稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

2021年5月18日火曜日

大道を 歩むすがたを ながむれば 心配もなし 安心もなし

  • 「善と知りつつ行われず、悪と知りつつ止まらず」というのが、凡夫の実態である。あさまし、あさまし。
    仰いでは讃嘆、俯(ふ)しては慚愧(ざんぎ)。まことにお愧(はず)かしい事である。
    「本願を信ずるものは因果に昏(くら)く、因果を信ずるものは本願に昏し」
    の誡めもある。慎み慎み暮らすべきである。

  • 凡夫は「我」が強いものだ。生活のための「我」は致し方がない。娑婆に居る間は、それは除(と)れぬ。けれども、お浄土参りとなれば「我」を出したら参られぬ。「佛法は無我にて候」と蓮如上人も仰せられた。

  • 佛法の上の「無我」とは、お慈悲があまりに大きく、本願力があまりに強く、佛智が甚深微妙なるが故に、「凡夫の思いはあかなんだ」となって、ひとえに南無阿弥陀佛のよび声に己れ忘れて信順するのを、それを「無我の信」という。
    「どえらい事じゃ どえらい事じゃ、南無阿弥陀佛の千両役者」
    このこころを「無我」という。

  • 聖徳太子が仰せられた。「世間虚仮 唯佛是真」と。この娑婆は狐と狸の騙し合いである。佛法は生死を離れて佛に成る大道である。
    佛法といえば、如来の本願大悲の南無阿弥陀佛である。これのみが真で、凡夫の思うこと為すことは皆、虚仮不実である。

  • 善悪に囚われておるのが娑婆である。凡夫の善悪ではお浄土へ参られぬ。
    歎異抄(口伝鈔)に曰く「善もほしからず、悪もおそれなし」と。唯だ「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」と。
    これが本願一乗、絶対不二の教(行)というものである。

  • 生死を離れんと欲すれば、しばらく是非・善悪を忘れて、阿弥陀如来の本願名号を見つめるがよい。娑婆のこと、凡夫の知解分別も忘れて、本願他力に身も心も吸い付けられるがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

2021年5月12日水曜日

大信心は佛性なり

  • 「今死んだらどうなるか」の問題は、人間が一番嫌う問題である。
    現世の幸福に眼が眩んでおる現代人としては、死の問題は嫌いであろうが、死の解決は生の解決である。現世の幸福ばかり追い求めている人は、意義ある生き方も知らぬ人である。

  • 他の動物は「死」ということを考えない。人間は最高の動物であるから、「生あるものは死に帰し、盛んなるものは衰える」ということを知っておる。
    死を思うだけであったら、あまり感心した話ではないが、死を思うと同時に、永遠の生命(無量寿)ということを思う。
    無量寿とは、「法身常住の理なり」と、存覚上人が申されたごとく、佛性があることである。佛性を考えるのが、人間の尊いところである。

  • 浄土真宗で佛性とはどういうものかと言えば、信心が佛性、如来さまが佛性、如来の本願力によっていつかは凡夫も佛に成ることが出来る、それを佛性という。

  • 佛性があるのに、それを知らず、考えず、現世の幸福ばかり追い求めて地獄へ落ちることは、まことに悲しむべきことである。
    そこで天親菩薩も『佛性論』を書かれ、道元禅師も佛性のことを『正法眼蔵』という書物の中に書いておられる。親鸞聖人も和讃に佛性のことを記しておられる。
    佛性は、如来さまの「どうしても助ける」「助けなおかぬ」の大悲の本願である。
稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

2021年5月6日木曜日

讃嘆の 念佛称える 身に仕立て 迎え取るのが 念佛往生(2)

 法然上人は『一枚起請文』の中に、
 「南無阿弥陀佛にて往生するぞ」
と仰せられ、また
 「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じて」
と仰せられた。これ皆本願名号を讃嘆しておられるのである。

 天親菩薩は、
 「我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命す」
と仰せられた。
 「帰命」は礼拝門であり、「尽十方無碍光如来」は讃嘆門である。天親菩薩が「無碍光如来」と仰せられた、これは讃嘆の極である。同時に信心の表白である。

 我らも「帰命尽十方無碍光如来」様を、仰ぎ仰ぎ、仰ぎ切って、「この無碍光如来様が見てござる、護ってござる、待ってござる」と、仰ぎ仰ぎてよろこぶ心が、それが讃嘆であり、また信心である。 その信心から流れ出る念佛が、横超他力の念佛である。
 天親菩薩の念佛は、讃嘆の念佛であった。善導大師、法然上人の念佛も、親鸞聖人の念佛も、すべて大信海より流れ出た、本願力回向の念佛であった。

 念佛往生の真髄は、信心往生であり、南無阿弥陀佛の独立である。

 親鸞聖人は、天親菩薩の真精神を承けつがれて、総序の文に曰く、
 「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と仰せられた。
 この一句が『大無量寿経』の真髄であり、『教行信証』の真髄であり、龍樹・天親の両菩薩を始め、七高僧方の真精神である。「聞其名号信心歓喜」の聖句と共に、一生涯の努力を捧げて、研究し、聴聞し、讃嘆するがよい。

 讃嘆のあまり、筆にまかせて下記のごとく詠ずる。

○聞くままに ただ聞くままに お慈悲よと
 たのむなりけり 弥陀のよびごえ

○九十年 何を聞いたか おぼえたか
 本願名号 ただひとつ
 よばれてかえる おやのふるさと

○佛法は 聞くでなし 信ずるでなし
 ただよび声の 響き渡れる

稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

No.139