2023年7月30日日曜日

枯木龍吟(こぼくりゅうぎん)

 『碧厳集』に曰く、
 「髑髏 識尽きて喜び何ぞ立せん」
と。白骨になったら、喜びも悲しみもない。
 又曰く、
 「枯木龍吟銷して未だ乾かず」
と。枯木となれば声もなく音もなし。生命なしと思うなかれ、秋風颯颯として吹き、寒風蕭蕭として枯木に当たるや、ひゅうひゅうと音を立てて呻る。是れ天籟の音楽なり、聞く人有りや無しや。
 人間が生きておるうちは、喜怒哀楽愛悪欲の七情に囚われ、是非善悪に囚われ、智愚・褒貶によって愛憎の波瀾を上げ、瞋恚の焔を燃やしておる。これがまことの人生か、真人なりや否や。
 没量の大人は大死人の如し。生きておるまま、一度死んでこい。死んだまま生きておる人の声は尊い。声なき声を聞け、屏風に描かれた松風の音は美しい。生まれぬ前の父はこいしい。生前の一句、聞く人有りや無しや。
 愛憎と善悪と智愚を超えて、超えたところから声を出したら、それが
 「枯木龍吟」
である。
 愛憎、智愚、善悪、是れ何ぞ、その結果や如何。
 大死人の声は是れ心性の響きであり、その情は如来の大慈悲心である。念佛せよ、念佛せよ。念佛、何処より来たるか。雨が降る、雨、何処より来たるか。風が吹く、風、何処より来たるか。
 無心の世界から来たるではないか。無心・無我から来たるものは、ほんまものである。愛憎より来たるものは、怒りであり、愛欲である。千に一つも得になるものはない。哀れなる哉、愛憎の奴隷、その奴隷は誰であるか、何処にあるか。
 大死一番し「枯木龍吟」の声を聞く人にして始めて自己を知り、自己の地位を知る。自己を知る人有りや無しや。自己を知るは自己を忘るるなり。自己を忘れた境地より発する声を、
 「枯木龍吟」
という。如来のみあって、能く是を発す。清浄にして真実なるものは如来の声である。
 「南無阿弥陀佛」
がそれである。清浄真実の声を聞くには、阿呆がよい、阿呆がよい。赤児がよい、赤児がよい。大馬鹿者は能く「枯木龍吟」を聞く。聞くこと易し、聞くこと難難。
 自己を忘れた如来の声は、自己を忘れて聞かなくては聞かれぬ。本願招喚の勅命は、ただそのままに聞け。聞くにあらず、信ずるにあらず、ただ招喚の声のみが響いておる。風に吹かるる柳のごとく、声に風化するまで聞くがよい。

 花も花 月もむかしの月なれど ただそのものに なりにける哉

 佛法は 聞くでなし 信ずるでなし ただよびごえの 響き渡れる

 耳で見て 眼で聞くならば 疑わじ 枯木龍吟 軒の玉水

 とはいうものの 人生は苦しい 怒るなよ 怒るなよ

 生も死も 佛とともに 旅の空

 死にがけに 何が残るか 何があるか 夢じゃ 夢じゃ

 たのみになるは 弥陀のよびごえ ただひとつ 本願力は 大きいでなあ

 臨終の病人さんが枯木じゃ。枯木であるが、未だ龍吟せず、龍吟を聞かぬ、これでは犬死に同様の病人である。枯木の口より出ずる念佛は、これぞまことの龍吟である。

 枯木になれ 枯木になれ。眼で見るな 耳で聞くな。

 枯木龍吟に徹した人は 言うこともなし 聞くこともなし

 煙草の煙となって はいさようなら 夢が覚めたら お浄土じゃ

 波立ちて しばしくだけし 月かげの やがて円かに ゆめさめしころ

 枯木龍吟 言うこともなし 聞くこともなし 本願力のひとりばたらき

昭和四十五年三月十三日     瑞劔 八十五歳

2023年7月26日水曜日

歓喜讃慶㈣

三十一、ただ本願力の不思議を不思議と仰ぎ、如来の「まこと」を「まこと」と忝くいただくのみである。阿弥陀様はありがたい。

三十二、「至心信楽己を忘れて無行不成の願海に帰す」(報恩講式)
    「行け来いの中で忘るる己れかな」(瑞劔)
    阿弥陀様はありがたい。

三十三、歓喜相続は、大慈悲心の中から薫発するのである。金剛堅固の信心は佛の相続より起こる。阿弥陀様はありがたい。

三十四、「本願一乗絶対不二の教(行)」のまま「絶対不二の金剛の信心(機)」である。阿弥陀様はありがたい。

三十五、佛心と凡心と感応道交して、佛凡一体とならしめたもう。阿弥陀様はありがたい。

三十六、本願名号は極楽からの特別招待券である。よんで下さるればこそ、私のような愚かものでも参らせていただくのである。阿弥陀様はありがたい。

三十七、誰も彼も、如来様の本願力に乗じて往生するのである。阿弥陀様はありがたい。

三十八、「若不生者不取正覚」のお誓い、願力摂取して往生を得せしめたもう。阿弥陀様はありがたい。

三十九、「往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」(執持鈔) 阿弥陀様はありがたい。

四十、天を拝せず、神に祈らず、吉凶を占わず、良吉日をえらばず、余道に事(つか)えず、雑行雑善に心をとどめず、来迎たのむことなし。ただ一心に進んで本願一実の白道を歩ませていただく身の幸。阿弥陀様はありがたい。

  「南無阿弥陀佛をとけるには 衆善海水のごとくなり
   彼の清浄の善身にえたり  ひとしく衆生に廻向せむ」

四十一、願力の不思議によりて佛智の不思議を仰がせていただく。佛教と佛意と佛願に順うのが真の佛弟子である。阿弥陀様はありがたい。

四十二、本願力を信受する佛智の眼をいただいて、自分の機を知らせていただいた。阿弥陀様はありがたい。

四十三、「佛力難思なれば古今も未だあらず」。信心の人はお浄土を望み、「若不生者」の本願、佛智の無限の世界を常に望んでおると、年と共に信力増上するのである。阿弥陀様はありがたい。

四十四、本願力に乗じて全く私なき親鸞聖人を常に仰がせていただいておる。この慶びは何にたとえようもない。阿弥陀様はありがたい。 

稲垣瑞劔師「法雷」第74号(1983年2月発行)

2023年7月21日金曜日

信心は難中の難

 佛という御方はどういう御方か、佛智はどのくらい深いものか、不思議なものか、本願力はどのくらい力強いものかということが飲み込めると、それがそのまま信心であるが、これが何十年説教を聞いても、しかと合点がゆかぬものであるから、信心は難中の難となってくる。

 三部経でも和讃でも、大蔵経の一冊でも、ほんとうに苦心してその意味を聞かせていただくと、とてもとても人間が考えていたようなものでない、ただただ佛智の深く広く不思議なことを知らされて、仰天するばかり、頭が下がるだけである。
 自分でお経を味わうことができなければ、何百万、何千万人の中でただ一人か二人かといったほどの偉い高僧方が一生かかって味わってくだされたものを、そのままお伝えくださるお方に出逢うたならば、「はい」と素直にお受けしたらどうか。

稲垣瑞劔師「法雷」第74号(1983年2月発行)

2023年7月15日土曜日

先徳法語

先ず懺悔から

 浄土が西方に実在せるや否やを論ずるよりも、親鸞聖人と一味の安心ありや否やを反省すべきである。欲生に心相ありや否やを論ずるよりも、「広大難思の慶心」ありや否やを考うべきである。真理運動の可否を論ずるよりも「香光荘厳」とは何ぞや、を問うべきである。

 本願寺から破門せられた人たちが、本願寺には親鸞聖人はましまさぬ、と田舎の彼岸参りの御同行に呼びかけたというが、これ以上の暴言はない。聖人は、我等がごとき罪業の心に影現(ようげん)したもう。

 むかし善光寺の講中が、俗僧を追い出して持戒堅固なる道心の清僧を迎えんとしたことがあった。その時、善光寺の如来の霊告に、

「五十鈴川 清き流れは さもあればあれ 我れは濁れる 水に宿らん」

とあった。この霊告を蒙った講中の人たちは、回心して俗僧を追い出すことを止めたということである。
 我れも人も、終日人の是非のみを罵りおうて、自己の懺悔は忘れている。
 「先ず懺悔から」・・・・・ 自ら記して誡めと為す。


法雷院釋利劔師は、法雷第三祖にして、護城院釋瑞劔師の先生であります。衣鉢を法雷第二祖 謙敬院釋隆英師より承けられ、その学轍 - 初祖 光明坊断鎧師に創まる法雷学派 - の研鑽とその興隆に生涯を捧げられた真宗の碩学であります。利劔師の数ある著述の中、『教行信証大系』全七巻は、利劔師が畢生の心血をそそがれた最大の遺稿であり、戦中、せっかく公刊を企画されながら遂にその実現を見ずして御往生(昭和20年4月25日)されましたのを、瑞劔師がその御遺志を継がれ、幾多の困難を克服して世に出された不朽の名著であります。今日の法雷会の隆昌発展は、この利劔師の御尽粋と、それを継承し、更に研鑽に次ぐ研鑽と、その弘宣に身命を捧げられた瑞劔師との両師の賜であります。大恩まことに謝しがたきものがあります。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年7月10日月曜日

歓喜讃慶㈢

 二十一、受け難き人身を受け、聞き難き佛法を聞かせてもらった。閉眼絶息の夕べ、願土に到れば速やかに大般涅槃を超証し、大悲の翼に乗って法界に遊ぶ。希望が躍っておる。阿弥陀様はありがたい。

二十二、無碍の光明は衆生一切の無明を破し、衆生一切の志願を満たしめたもう。親鸞聖人にめぐりあい、人生の大事ここに畢(おわ)ったことをよろこぶ。阿弥陀様はありがたい。

二十三、信心は如来の正覚の功徳力に外ならない。信心も往生も六字の外にはない、勅命の外にはない。阿弥陀様はありがたい。

二十四、「南無というは帰命なり」「帰命は本願招喚の勅命なり」と。喚んでくださることが如来の廻向である。阿弥陀様はありがたい。

二十五、「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」と。阿弥陀様はありがたい。

二十六、一切善悪の凡夫人、生を得るものは皆阿弥陀如来の大願業力に乗じて往生するのである。阿弥陀様はありがたい。

二十七、「其の名号を聞いて信心歓喜し、乃至一念せん、至心に回向せしめたまへり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん」と。阿弥陀様はありがたい。

二十八、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
     功徳の宝海みちみちて  煩悩の濁水へだてなし」
と。阿弥陀様はありがたい。

二十九、信の一念は口にも筆にも言われぬ妙風光である。ただ佛心が凡心に映ってくださったのである。阿弥陀様はありがたい。

三十、常に阿弥陀様を憶念させていただくのが一番幸せである。生死の大怖畏を離れた大満足心がある。阿弥陀様はありがたい。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2023年7月5日水曜日

歓喜讃慶㈡

十一、「人能く是の佛の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る」と。阿弥陀様はありがたい。

十二、本願一実の大道を指示して、一切の群生を智城に入らしめたもう。阿弥陀様はありがたい。

十三、如来の本願力は磁石が鉄を吸うごとく、摂取して捨てたまわず、光明土へ生まれしめたもう。阿弥陀様はありがたい。

十四、如来の大悲の本願力が、私を摂取したもうことを、念じさせていただくばかりである。これほど楽しいことはない。お陰で健康も増進し寿命も延びる。阿弥陀様はありがたい。

十五、人間相対の善を奪い、虚仮不実の行を捨てしめたもう。阿弥陀様はありがたい。

十六、念佛は讃嘆と報恩とである。また本願によって名声(みょうしょう)が普聞(ふもん:あまねく聞かしめる)するすがたである。念佛させていただいているままが、南無阿弥陀佛であり、憶念であり、信心である。阿弥陀様はありがたい。

十七、信の一念に私を無量寿・無量光の大生命の中に摂取して下さる。阿弥陀様はありがたい。

十八、大悲大智の聖火を以て、凡愚自力の「はからい」を焼きつくし、佛智の不思議に安住せしめたもう。阿弥陀様はありがたい。

十九、十方にまします諸佛は、無量寿佛の威神功徳不可思議なるを讃嘆したもう。阿弥陀様はありがたい。

二十、善いことはできなくとも、信心の徳として、悪いことはすまいと慎ませていただける。阿弥陀様はありがたい。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

No.139