2022年11月30日水曜日

親様いませば

 今、五分間の後には、自分はどうしても死んでゆかねばならぬとなったらどうであろうか。
 この世で造った罪業はもちろん、久遠劫来造った罪が、何とも言い知れぬ恐ろしい感情となって、死の床に来襲するであろう。病気の苦しみの上に、罪の責め苦に遭い、淋しく恐ろしく、何とも名状すべからざる有様になるであろう。妻子も財宝も、一つとして身に添うものはない。独り来たり独り去らなければならぬ。

 この場に至っては、分かったとか分からぬとか、信心をいただいておるとか、まだ信心をいただいておらぬとかといった、凡夫自力のはからいを言うておる余裕はない。あと五分間の命よりない。
 死に迫られている本人の苦悶はさることながら、如来様はそれを御覧になって、本人以上にお慈悲の涙を流しておられることであろう。
  死の床に横たわっている人に対して如来様はどう仰せられるであろうか。

「そうか、お前は信心を得ていないから往生することができないと思っておるか、そうか、そうでもあろうが、今お前の命は終わらんとしておるではないか。命が終わったらお前はどこへ行くつもりか、地獄が大きな口を開けてお前を待っているではないか。今に及んで自分が信心があるかないか、自分の心の中を眺めている時ではないであろう。
 お前は信心がないのを心配しておるが、わたし(阿弥陀親様)は、お前の信心があるかないかを調べようとは思っていない。今に臨んでそんなことに思い悩むことなかれ、
 〈若不生者 不取正覚〉の本願力は常住不変であるぞ、お前の後生はおれ(如来)が引き受けた。心配するな、待っておるぞよ。わたしはお前のために正覚を取り、お浄土をつくったのである。おれはお前の親であるぞ」

と仰せられるにちがいない。
 また如来様は臨終の病人に対して仰せられるであろう。

「信心がないというてもがいておるか、そうか、可哀想に、信心があればよし、なければよし、お前の思うておるような信心が何になるものか、はからいの信心がたよりになるのでなく、わたしがお前の依りどころである。
 わたしは嘘をつかんぞ、〈若不生者 不取正覚〉である。わたしが生きておったらおまえの往生は大丈夫である。南無阿弥陀佛がおまえの往生の証拠であり、保証である。本願力が磁石となってお前を浄土へ引きつける。たとえお前がほっといてくれと言うたとて、ほっておかれぬ親心、どうぞわたしに助けさせておくれ」

と仰せられるにちがいない。
 まことに忝く、たのもしき極みである。まだ信ぜられぬ、信心がいただけぬと言うておっては勿体ない。

 無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ

 願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
 佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年11月25日金曜日

佛智の眼を借りて

  自分の力で取られぬ信心を、取ろう取ろうとするところに病気がある。

 ひるはひねもす 夜は夜もすがら
 若不生者(本願力)と せまりくる

 佛・菩薩の悟りの眼はすなわち、一切衆生を救いたいという大慈悲の眼である。ここに佛教独特の「大智」即「大悲」、「大悲」即「大智」の哲理と事実がある。
 この意味において佛教は、大智の宗教であると共に、大悲の宗教である。しこうして佛の大慈悲心の示現が阿弥陀佛の本願力であり、それの成就のすがたが南無阿弥陀佛である。

 何十年と聴聞していて信心が得られぬと言うている人は、その心の奥底を調べてみると、信心を取りたい、いただきたいと思う出発点の名残がある。信心をいただいたら心が浄くなるか、腹が立たぬようになるか、何か信前と比較して変わったところが自覚されなければならぬと思い詰めておるからである。
 だんだんと本願力を聞かせていただくと、自分の心の汚さ、醜さ、罪の深きことなどは、聞かぬ昔よりも一層深く自分に見せつけられるものである。これは佛智円照の光明に照らされて見せられるのである。

 信心を得たら、信心を得たという自覚がなければならぬ、自分はその自覚がないから、まだ信心がいただけておらぬのであろうと機嘆きをするのであるが、これまた心のどん底を調べてみると、その自覚を目当てに佛法を聞いているのであって、本願他力の謂われを聞かせてもらい、あて力になるものは、自分の自覚でなくて、本願力の広大さ、不思議さであるというところに心が落ち着いていないからである。それを聞き方の方向が違うというのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年11月20日日曜日

心を弘誓の佛地に樹てよ

 真宗の根本は、阿弥陀如来の本願である。本願は阿弥陀如来の「無我の大悲」であり、「無分別の真智」そのものであり、またその功徳力のあらわれである。その本願を「南無阿弥陀佛」という。
 「本願」という言葉を聞けば、佛の無我の大悲が憶われ、「南無阿弥陀佛」と聞けば、佛の無分別の大智が念われる。如来の大悲大智の功徳力、すなわち南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。『和讃』に親鸞聖人のたまわく、

 「自利利他円満して
  帰命方便巧荘厳(南無阿弥陀佛)
  こころもことばもたへたれば
  不可思議尊を帰命せよ」

と。「安心ができません」といって歎く必要がないではないか。「安心」も「不安心」も要らぬ大安心が、南無阿弥陀佛のうちにいただかれる。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2022年11月15日火曜日

方便

 佛法は、凡夫にとっては皆方便じゃ。方便でなくては凡夫には分からぬ。それに凡夫は、方便を方便と知らずして、はかろうて落ちる。
 自力の廃るのは、如来の無上の方便を、直ちに「大慈悲心」と受け取り、「佛智不思議」と受け取ったら、そのとき自力が廃る。

 「方便」はそのまま如来の「真実」じゃ。如来の大智誓願力じゃ。「般若方便を摂し、方便般若を摂す」とあって、方便を直ちに如来の般若の智慧と受け取るところに、生死を離れることが出来る。自分で般若がさとれるものか。悟られぬ迷いの凡夫やから、如来の方便が要る。

 方便となれば、人がどない言おうが「真宗は嘘じゃ」「佛教は間違いじゃ」と言ったところで自分は、うそと見ゆる方便道によって「一超如来地に入らせてもらう」ことの幸いをよろこべばよい。

 智者や学者は、弥陀の方便を捨てて自分で般若を悟ろうとする。わたしらには出来ぬこと、一生迷いの凡夫である。迷うておるから、如来の方便が有り難くいただけるのである。
 方便となれば、合点がゆこうがゆくまいが、一向かまわんでないか。合点して往生するのでない。なるほどなるほどと合点したら、おそらくは落ちなければなるまい。
 如来の大悲方便力によって往生するのである。そこを「けたはずれ」と言いたい。他人様は2×2が4で佛に成るかもしれぬが、わたしは2×2が5で往生する。

稲垣瑞劔師「法雷」第66号(1982年6月発行)

2022年11月10日木曜日

どうしても参られぬ 本願あるから参られる

 「どうしても参られぬ」というのは、お浄土は「第一義諦妙境界相」といって、三種荘厳(国土・佛・聖衆)の美わしい「一乗清浄無量寿世界」であり、そのまま「第一義諦」(非有非空)であり、実相であり、また大慈悲心と佛智で出来上がっておる妙土であるからである。
 また国土というから、この娑婆のような穢いものが一杯ある所かと思ったら、浄土は国土全体が佛法であり、三宝であり、また実に阿弥陀如来の全身であり、南無阿弥陀佛である。
 極楽荘厳が、ぞろっとこの娑婆にその影を映し、展開したのが浄土真宗という大法門である。すなわち「教・行・信・証」である。

 今日の凡夫は「信心取ってお浄土へ参る」と言うておるが、その実、如来様の御身が、われらのためにこの世界にご出張下され、浄土が現土に出張して下さっておるのである。勿体ないことである、忝いことである。
 どこにご出張下さっているのか、少しも見えぬでないかというであろうが、「教・行・信・証」が、あれがお浄土の荘厳の御出張である。
 こんな尊いことは、なかなか聞くことはできぬ。瑞劔も、三十八歳の時から桂利劔先生に二十年間師事してこのことを教えていただいた。それまでに三経七祖、御本典は独学で一通り目を通しておったが、独学の二十年は、先生に就いての十五分間の値打ちもない。

 お浄土の荘厳がこの世界へ御出張下され、私の心に響き、心に徹し、心に映って下さることを「回向」という。お浄土の荘厳はすなわち是れ南無阿弥陀佛なるが故に、つまり南無阿弥陀佛様が、私の心に入り満ちて下さることを「南無阿弥陀佛の回向」という。和讃に聖人のたまわく、
 「南無阿弥陀佛の回向の 恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には  還相回向に回入せり」
と。この南無阿弥陀佛の独りばたらきを「南無阿弥陀佛の独立」という。
 南無阿弥陀佛の独立が有り難く味わわれなければ、凡夫の全ての心のはたらきは自力である。たとい喜んだとて安心したとて、それらは自力の喜び、自力の安心である。

稲垣瑞劔師「法雷」第66号(1982年6月発行)

2022年11月5日土曜日

佛智を仰いだら

 浄土真宗は、佛を分からせて佛にしようとする教えである。佛は分からぬものじゃ、そやよってに佛を手近に見せてくださってある。南無阿弥陀佛が、それが佛である。
 このお六字があらわれてくださるまでには、天地一切の真理と、諸佛のありたけの智慧とがこもっておる。
 お六字が佛様であることが分かれば、何の不足があるか。ただおお六字に腹がふくれて、頭が下がってから、命のある限りぼつぼつと、分に応じて、一切経を拝見して、ますます佛様は智慧と慈悲とのかたまりであることが分かって、ますます呆れ果てるのみである。
 八万の法蔵を読む人も一文不知の尼入道、一切群生海は皆一文不知の尼入道で往生するのである。賢ぶる人は落ちますよ。

 この最三は、ようまあ都合の良いように親が生んでくれたものじゃ。もともと賢う生んでくれたのであったら阿呆の真似をすることは難しいのであるのに、元来阿呆に生んでくれたればこそ、阿呆が阿呆で極楽参りをする。
 世間のお方は皆賢いお方ばかりである。そやによって阿呆になれ、愚痴にかえれ、大愚痴底の人となれと言っても、皆難しそうにしておられる。
 そこへゆくと私はとくなものじゃ。人が難難と言い、銀城鉄壁と言うておる関所を、阿呆の二文字をもって難なく透ることができる。佛智の広大無辺を仰いだとき、阿呆も阿呆、底抜けの阿呆でなくて何であろう。

 月を仰がぬ人は真っ暗がり、月かげを仰げば自分の胸の闇まで晴れる。晴れた姿はこの阿呆じゃ。何と阿呆もよいものでないか。
 佛法の世界に入るには、賢者や智者は門前払いを食うかも知れぬが、阿呆は門前払いを食いながら、すらすらと通ってゆく。人生もまた、苦は苦ながらに楽がある。この楽しみは佛法楽法楽というものじゃ。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

No.139