2023年8月30日水曜日

ただ佛語を仰ぐのみ

 佛法の真の味わいは、ただ佛語を仰ぐのみである。この外に、根もなければ葉もない。深いこともなければ、浅いこともない。
 佛語が如来であり、佛語を信じ仰ぐことまでも皆これ如来である。南無阿弥陀佛である。本願力である。一句のお言葉でも、それが一切経の全体、宇宙の真理の全体、我が往生の全体、信心の全体、それが如来であり、同時に我が生命であり、安心の依りどころである、と思うべきである。
 佛の言葉を仰ぎ信ずるほかに佛法もなく、信心も往生もない、とよくよく思わぬと、信心の暁に出ることは出来まい。「経と佛語にしたがへば 外の雑縁さらになし」である。これは佛法の秘訣である。
 佛語は真実であり、甚深微妙である。佛語に順う以外に信心がないのである。佛語が信ぜられぬというのは、佛様を一寸えらい人である位に思うているのである。佛が、ほんとうに佛だ、不思議な、有り難い佛だと分かれば、そのお言葉は信じまいと思っても信じられるはずである。

稲垣瑞劔師「法雷」第76号(1983年4月発行) 

2023年8月25日金曜日

南無阿弥陀佛に不足はない

 真理というものは、一方から見てはわからぬ。真理は八面玲瓏ですきとおったものであるが、そのすきとおった真理の顔は千万無量の顔を持っておるから、小乗佛教から眺め、大乗佛教から眺め、華厳から、天台から、真言から、禅から、浄土から、三論から、法相から、また現代科学から、哲学から、すべての方面から眺めて、大きいところに立ち、高いところに立って、いよいよほんとうの真理は何か、どこにあるかということを知らねばならぬ。これはなかなか普通の人で出来ることではない。
 そこで我等としては、先ずお釈迦様の仰せはすべての真理をあらわしておられると信じて、一句の法門でも大切にいただくに限る。
 如来の言葉は、一語に無量の義を含んでおる。無量の義を一語、一句におさめておる。如来の言葉の外に、生死を離れて無量寿の生命に入るべき道はない。
 真理が無限の数多き顔を持っておるということをさとると、八万四千の法門も、なるほどなるほどとありがたく受け取れる。
 八万四千の法門は、私のためには、南無阿弥陀佛の中におさまっていてくださる。何の不足もない。
  真理として、私が往生成佛の真実の利益を得ること以外に、私にとって真理はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第76号(1983年4月発行)

2023年8月20日日曜日

先徳法語

 亀山の本徳寺において一布教使から質問を受けたことがある。曰く、

「臨終の迫った一老人がどうしても疑い晴れぬと悩み抜いているのを見て、〈疑っておってもそのままお助け下さる阿弥陀佛であるぞ〉と教えたら、非常に喜んで安心して往生した。平生に、疑いながらの往生を説くことの不可は知っているが、特別な場合には臨機応変、之を説いてもいいかと思いますが如何ですか」

 私(利劔師)は、それに答えて言いました。

 「それはいかぬ。第一、貴方が人に信心を頂かしてやるという態度が悪い。又、その老人が信心を頂いて往生したという考え方も悪い。
 『法苑珠林』という書に臨終の種々なる相が説いてあるが、外から見れば結構な往生と見えたのに、実は天人と見えたのは鬼であり、奇麗な輿と見えたのは火の車であったり、お浄土に生まれたと思ったのが実は地獄であったり、其の他このような例が沢山述べてある如く、〈往生〉〈信心〉のことは人間の認識の及ばぬ世界である。
 またたとい臨終といえども、間違った勧め方をしてはならぬ。我等は教えられたままを素直に、そのまま話せばよいのであって、佛縁ある者はこれによって信を得るであろうし、佛縁無き者は往生できぬかも知れぬが、仕方がない。
 我等はただ本願の不思議を喜ぶことのみを許されているのである。宗乗を学ばず、自己の体験を主とする人にはこの間違いが生じやすい」と。

稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)

2023年8月15日火曜日

海山の御恩

    食うということは大きな問題である。ようまあ、この年まで如来様や、父母や、世間の人達や、お師匠様が養うて下されたことよと思う。眼に見えるところは千万分の一である。目に見ないお育ては海山の御恩である。
 人間は、滋養物さえ沢山取れば、それで健康になっていのちも長らえられると思うたら、大間違いである。耳から佛法を聞き、眼で佛像・佛画・聖教・名号を見て、眼からも耳からも、精神的の滋養を取らぬと長生きはできぬ。佛や菩薩方は「禅三昧を食となす」ともあって、精神的の食物の大切なことを思わねばならぬ。

 また心得としては、佛法を聞くために養生をする、佛法を説かんがために長寿を欲して養生を守る。すべて佛法中心で、佛法の尊貴なることを思うて、この肉体を大事にしなければ勿体ない。佛法のための身、佛法のためのいのちと思うがよい。
 佛法のためとは、一切衆生のためである。自分が第一に佛法をありがたくいただくことが、一切衆生のためになる。

稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)

2023年8月10日木曜日

自分の後生と結びつけて

 佛教の勉強は、物知りになるために勉強するのでない。名利のために勉強するのでない。
 一冊読んでも一句の法門を頂いても、直ちに自分の後生の問題と結び付けて、読みもし、考えもしてゆくことが大切である。でないとお聖教の意味は分からぬ。心得事である。

稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)

2023年8月5日土曜日

一分間も惜しんで佛法に

 安心の問題は、我れ人ともに、後生の一大事であるから、説く人も聞く人も、聞いた上に聞き、調べた上に調べて、少しも間違いのないように甚深、細心の注意と努力が必要である。
 そう思うと、一つのことでも、朝晩に考え考えして、何年何十年と研究しなければならぬ。もう自分は分かったというと、卒業免状でももらった気持ちで、安閑としておるような時間は、一日のうちに五分間もないはずである。五分間を惜しんで、佛道に、聞法に、思惟に、研究に心を入れるべきである。
 稼業を励みつつ、鍬を手にし、ご飯炊き、お勝手をしながらも、御恩を思い、よろこびよろこび、また、これではいかんと心に鞭を当てて精進しなければ、祖師聖人に対してあいすまん。

 『御本典』や『和讃』を頂いて、第一に思われることは、祖師の御苦労である。書物を書かぬ人は分からぬであろうが、読めば読むほど味があり、ただただ驚くばかり、あれほどのものが出来るのに、どれほど苦心惨憺せられ、読み直し、書き直し、一切経の閲覧まで、考えてみれば、五分間どころか、一分間も、夜の寝覚めにも思い思うて、九十年の結晶が、今日われらの頂くお聖教となったのである。
 それを思うと、食うものや、着るものや、住む家について、不足不満は勿体ない。また遊ぶ時間は一分間も出て来ぬではないか。電車の中でも書物は読める、字も書ける。思いを浄土に遊ばすことも出来るのである。あれしてこれしてと思うているうちに、五十年八十年の人間一生は、瞬く間に過ぎてしまう。

稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)

No.139