2023年5月30日火曜日

佛語と祖師のお言葉を

 「はからい」がすっかり無くなるには、釈尊が佛陀であるという信仰が第一番に必要である。高僧方が釈迦如来をお敬いされているのは、今日の我々が釈尊を敬っているのと雲泥の差がある。子供の時からその点と、因果(業)の真理をしっかり植え付けておくことが大切である。これがおろそかになっておるものだから、いくら説教を聞かされても、はからいが捨たるどころか、ますますはからいを重ねるようにも思われる。
 「はからいを捨てよ」というても、なかなか捨たるものではない。己れの愚かさが分からぬからである。己れが愚か者であることが分かるのは、釈迦如来の智慧と慈悲と、お説きあそばされた教えの真理が分かってくると、自然に自分の愚かさが分かってくる。そうなれば理屈を捨てて、ただただ佛語に信順するようになる。
 佛語を信ずるより外に、往生極楽の道はない。はからいが捨たるのも、佛語を仰ぐこと以外にない。
 和讃に曰く

 無明長夜の燈炬なり  智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり  罪障重しとなげかざれ

 願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
 佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず

と。何とありがたいお言葉でないか。この「おことば」はそのまま南無阿弥陀佛の「およびごえ」である。
 このおことばをよくよくいただいて、死に直面しても少しも不安の無いようになるまで、しっかりと聞きもし、説きもし、味わって味わって、味わいつくして、如来様の限りなき智慧と慈悲のまことが身心に徹底することが大切である。このお言葉を、自分のいのち、生死を解脱する唯だ一つのお言葉であると深く信ぜられるまで味わわれないようなことでは駄目である。
 このお言葉が、ほんとうに、ありがたく味わわれてみれば、はからいはひとりでに捨たる。信心決定の秘訣は、ただただ祖師聖人のお言葉をそのままいただくより外に道はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2023年5月25日木曜日

誓願不思議 不思議なり

 まことの言葉を、そのままいただけばよし。誓願不思議を「誓願不思議」といただき、南無阿弥陀佛を「南無阿弥陀佛」といただくのである。
 くどくどしい説明はいらぬ。最高の説明はお聖教である。凡夫自力の智慧を持ち出すと往生を仕損ずる。分かっても落ちる、分からなくても落ちる。信心を取ったと思うて、その信心を失わぬように力こぶを入れておると肩が凝る。気が詰まる。肩の凝らぬ佛法は、

 「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

である。凡夫が佛に成るのは、棚から牡丹餅どころか東山水上行(とうざんすいじょうこう)である。
 聞こえても、聞こえなくとも、信じられても、信じられなくとも、安心があろうが、無かろうが、

 「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

である。
 説明を充分にして人を喜ばすこともさのみ難しいことでないが、喜んで何になる。喜ばせて何になる。喜びを当てにしておると、その喜びは朝日の前の露の玉で、また直ぐ消え失せるであろう。

 このこころ きのうのこころ どこへやら
 今の心も風車 明日の心もたよりない
 三世の心 変わりづめ 変わらぬ親の大悲心
 無碍の佛智の月かげを 仰ぐこころも おかげさま  瑞劔

 そうかと言うて「聞其名号信心歓喜」「能発一念喜愛心」とあるからは、信心の上のよろこびは、願力自然のよろこびであるから、それまで悪いというのではない。佛法のよろこびは、何はさておき、生死について苦が抜けたよろこびである。
 瑞劔には何の体験もなく、何の力もなく、少しばかりの智慧も才学もない。ただ、

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」

のである。

 体験という体験も さらになし
 南無阿弥陀佛を 今はじめてぞ聞く  瑞劔

 和讃に曰く、

 「佛智の不思議を信ずるを 報土の因としたまへり」

と。仰ぐべし、信ずべし。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2023年5月20日土曜日

法が機になる一すじの道

 「いくら聞いてもこちらは、ありがたいこともなく、なんともない。ありがとうなられなくとも、それでよろしいか」
 なられたらよし、なられなければそれでもよし。お念佛も出ればよし、出なければそれでよし。今、汝は死の床にあるのでないか、死の床に就いている大病人に、注文はせぬぞ。
 苦惱の汝を捨てておかれぬのが汝の親である。親は疑いのあるまま「まかせ」とは言わぬ、往生できるとは言わぬ。「どうぞ」とたのめとは言わぬ。
 注文とてはお前に、信一つも、行一つもせぬぞ。五劫思惟の本願も、南無阿弥陀佛の正覚の功徳力も、お前のために成就したのである。佛智不思議の正覚の鏡の中に、久遠の昔よりお前の姿が映っておる。大悲の本願の鏡の中に、お前を抱いてかかえておったのである。映ったが最後、どうしても捨てられぬのが、南無阿弥陀佛という汝の親である。如来である。阿弥陀である。
 機(自分のこころ)を繕うて、信心取って、安心してから往生するのでない。聞いたとも、聞こえたとも、どこを探しても、信心のような味も香りもしない。
 元の凡夫を、そのまま、生地のまま、助くるのが、本願力の不思議というものである。名号の不思議、佛智不思議である。

 凡夫の思いによって、南無阿弥陀佛がはたらいて下さるものでもなく、安心したから助かるのでもない。ただ是れ「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀佛」である。
 本を読んでも、説教を聞いても、凡夫がはたらいている間は地獄行きである。

 「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

と如来様が独りはたらいて下されてこそ、凡夫は助かるのである。

 如来の「大悲心」が我が信心、如来の「まこと」が我が往生、如来の大生命が我が生命、如来の功徳が我が功徳であるところを、「佛凡一体」とも「機法一体」とも言うのである。
 「絶対不二の法」(南無阿弥陀佛)の外に「絶対不二の機」(金剛の信心)あることなし。
 「南無」の機の外に「阿弥陀佛」の法あることなし。
 「絶対不二の教(行)」のままが、「絶対不二の機」、すなわち金剛の信心である。これが真宗の面目である。これが本願一乗というものである。
 南無阿弥陀佛の「法」があまりに手強く、大悲の誓願力があまりに強烈で、尊いから、凡夫は目をまわして死んだものにしてしまわれる。死骸同然の私が助かるのは全く如来の大誓願力である。

「名号不思議の海水は   逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば  功徳のうしほに一味なり」

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2023年5月15日月曜日

如来様がはたらいて

 凡夫は、信じたようでも往生極楽の元手になるほど純粋な、一念の浄信をよういただかぬ。

 「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

と、南無阿弥陀佛のひとりばたらきを、ひとりばたらきさせておいたら、それが「弥陀をたのむ」とも、「弥陀にまかした」とも、「南無阿弥陀佛の独立」とも、また「広大無碍の一心」ともいうのである。
 とかく自分がはかろうたならば、それは「凡夫自力のはからい」というもので、信心取ったと思うていても、大信心ではなくて、凡夫の思いであり、「つもり」である。「つもり安心」にては、大願清浄の報土に入ることはできぬ。

 南無阿弥陀佛の「ひとりばたらき」は、私の煩悩も、疑いも、心も、身も、世界までも全滅して、ただ「ありがとうございます」とならせたもう「はたらき」である。「はたらき」とは「不可思議の誓願力」である。
 如来様がはたらいてござるのに、凡夫がその上に、何をして、どういうはたらきをして往生しようと思うておるのであるか。
 如来の大誓願力が我が往生、如来の大悲心が我が信心、如来招喚の勅命が南無の信心というものである。

 「帰命(信心)は本願招喚の勅命なり」

と。ただ如来の誓願不思議力にて参らせていただくのである。ようまあ「ただ助くるぞ」の本願をお建てくだされたことよ、とよろこぶ他はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2023年5月10日水曜日

一機一法

 本願力の南無阿弥陀佛を、どれほどの力、どれほどの功徳力と思うておるのであるか。本願力の南無阿弥陀佛こそ、阿弥陀如来の不可思議の誓願力であり、真如一実の功徳宝海である。如来の仕事のほかに我が往生はない。如来の本願力のほかに、成佛の因もなければ果もない。
 「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」をどう聞いたか、どう聞こえたか。どう信ぜられたか、どう安心せしめられたか。聞こえたも聞いたも、安心したも信心取ったも、あったもんかい。
 「弥陀の誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」である。「それならば、信心がなくても往生できますか」と問いたいであろう。問うことを止めて、「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」を、「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」と仰ぐがよい。

 南無阿弥陀佛は、如来のはたらきである。如来のはたらきは、誓願不思議であり、正覚のはたらきであり、正覚の功徳力である。如来の因位のはたらき、果位のはたらきは、そもそも誰の為のものであるか。

 此処に苦惱の衆生がおる。苦惱の衆生とは他の人ではない。此処におる「私」のことである。如来様はこの苦しんでおる私一人の為の如来様である。南無阿弥陀佛は、如来の生命であり、佛智であり、本願力であり、また如来の無量力功徳である。ゆえに始めも終わりも、玄関も奥座敷も、

 「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

である。南無阿弥陀佛はまた、如来の念力であり、摂取衆生力であり、大智慧力であり、大慈悲力である。また大三昧力、大降魔力である。如来の無量力功徳のみが煩悩具足の凡夫、この私を佛になしたもうのである。信心とは佛の無量力功徳を憶念し、誓願力を憶念することである。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2023年5月5日金曜日

ただ願力を仰ぐ

 誓願不思議は、如来の「ことば」であり、如来の「こころ」であり、如来の「念力」であり、「本願力」であり、「佛智の不思議」であり、また是れ如来の「大慈悲力」である。凝って南無阿弥陀佛となりたもうた。
 親様の無量力功徳と、親様のまことと、佛智不思議のはたらきのほかに、往生極楽の道は絶対に無いのである。「信心がなければ往生はできぬ」と思い詰めておるものだから、その信心を取りにかかる。信心とて六字のほかになく、往生とて六字尊号、摂取不捨のほかにはない。一切衆生は、本願力一つで往生するのである。極楽の荘厳も本願力であり、南無阿弥陀佛である。

 極楽は「広略相入」「第一義諦妙境界相」であるが、極楽の主は阿弥陀如来であることを忘れてはならぬ。天親菩薩の『浄土論』に曰く、

「佛の本願力を観ずる(心に浮かべ見る)に、遇うて空しく過ぐる者なし。能く速やかに功徳の大宝海(南無阿弥陀佛)(身心に)満足せしむ」

と。「本願力」の一言は、見るでなく、読むでなく、全生命、否、久遠劫来の全生命をぶち込んで、よくよく味わうべきである。

 本願力を以て三種荘厳の体とする。本願力によって浄土は建立せられ、本願力によって往生せしめたもう。それなのに「信心取って」と踏み出すから、信心も得られず、浄土に往生することもできないのである。
 信心はこんなものである、と始めから心の中に描くのでない。御回向にあずかって、「これはこれは」と誓願不思議の南無阿弥陀佛に還って、敬恭の頭を垂れるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

No.139