心の影法師を追い回すたびごとに、「それが無上佛に成るに何の役に立つか」と考えてみる必要がある。「知った」「覚えた」ことばかりが耳の底に残っていては、聞いた所詮がない。
「凡夫のすることは、何一つ役に立たぬ」となれば心さみしく思うであろうが、一たび本願力に眼をつけ、誓願不思議に腹がふくれてみれば、如来を拝見した心地して、その淋しさは慶びと変わる。
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
今母が 今臨終が わが子ぞと おもひて説けよ まこと つくして (瑞劔)
たれもまた かくやなるみの 夕日潟 今日をも知らぬ わが命かな(古歌)
「如来の興世にあひがたく 諸佛の経道ききがたし
菩薩の勝法きくことも 無量劫にもまれらなり」
「善知識にあふことも をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」
「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし
難中之難とときたまひ 無過斯難とのべたまふ」
「難中之難とあれば、かたくおこしがたき信なれども、佛智よりやすく得せしめたまふなり」
「弥陀は兆載永劫のあひだ、無善の凡夫に代わりて願行を励まし、釈尊は五百塵点劫の往昔より八千返まで世に出でて、かかる不思議の誓願を吾等に知らせんとしたまふを、今まで聞かざることを慚づべし」
「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したる本願のかたじけなさよ」
「佛力難思なれば古今も未だ有らず」
人生の 浮沈も親と もろともに 瑞劔 心の影法師を追い回すたびごとに、「それが無上佛に成るに何の役に立つか」と考えてみる必要がある。「知った」「覚えた」ことばかりが耳の底に残っていては、聞いた所詮がない。 「凡夫のすることは、何一つ役に立たぬ」となれば心さみしく思う...