2024年4月25日木曜日


   人生の 浮沈も親と もろともに   瑞劔


 心の影法師を追い回すたびごとに、「それが無上佛に成るに何の役に立つか」と考えてみる必要がある。「知った」「覚えた」ことばかりが耳の底に残っていては、聞いた所詮がない。
 「凡夫のすることは、何一つ役に立たぬ」となれば心さみしく思うであろうが、一たび本願力に眼をつけ、誓願不思議に腹がふくれてみれば、如来を拝見した心地して、その淋しさは慶びと変わる。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年4月20日土曜日

死の解決㈡

 「善を為せ」というか。「神仏に祈れ」というか。神仏は黙然として物を言うてくれない。返答をしてくれない。泣いても叫んでも、訴えても祈っても、何の答えもない。我れを救いたもう神を信じたいのだが信ぜられぬ。
 どこの医者でも病院でも「絶望」と言われた患者が、神に祈って治った者が幾人おるだろうか。それにも拘わらず「神に祈ればきっと良くなる」と断言する教師の面の皮の厚さには驚くではないか。

 自分の死は一日一日と迫ってくる。聖なる理想を追求せしめる理性は、かつて知られなかった強烈なる要求を以て内部から迫ってくる。
 浮世の生命、それは尊い、望ましいものであるが、死の烙印を捺された今となっては、聖なる生命、不死の生命、無量寿の生命! ああ、その生命が欲しい。死を通して生き抜く大生命が欲しい。

 人生の解決は、浮世の生の解決に非ずして、死の解決である。死の解決は人生の解決である。
 死を如何にして解決するか、今眼前に迫っておる死をどうすれば解決できるか。古来一人でもよいが、ほんとうに死を解決して、不死の大道と一如になった人がおるであろうか。
 ああ、その人の声が聞きたい。その人の教えが知りたい。この場に臨んで悪魔の声は聞きたくない。偽宗教の言葉は聞きたくない。真理の声が聞きたい。真理のみが今の自分を解放してくれる。真理のみが不死の大自由境に自分を遊ばせてくれる。
 されど冷たい真理が、それが何になるか。何十年もかかって悟らなければ分からぬような真理が、どうして今の間に合うか。脳漿(のうしょう)を搾って真理を理解し、真理を聞いて合点し、書物を読んで道理理屈が分かったところで、それが何の役に立つか。自分の欲しておるものは「死の解決」である。冷たい真理は自分の「死」と、あまりに遠くかけ離れている。どこかに「温かい真理」はあるまいか。真理と合一した温かい人はいないか。自分はその人の声を聞きたい。
 死の宣告を受ける前に、いろいろの宗教をかじってみた。宗教書も、哲学の書物も読んでみたが、一つとして死を解決するに足る満足なる言葉に接したことがない。頭から「信ぜよ」「信ずるものは救われる」と言われたところで、何を、如何に信ずるか、信じたらどうなるか、「救い」とは何の意味か、救われたらどういう境地に達せられるのか、人は何故に救われねばならぬのか、と尋ねてみるが一向に明答は得られない。
 「行をせよ」「心の埃を払え」「善いことをせよ」「懺悔せよ」「祈れ」「因縁を断ってやる」「霊を祀れ」「汝の罪は赦されたり」などと言われたところで、今の自分の死の解決に役に立ちそうにも思われぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2024年4月15日月曜日

死の解決㈠

 医者から死の宣告が下された。あと半年か、一年以内の命である。
 今後二十年か三十年は生きられる健全な心臓は「生きよ、生きよ」と言ってくれているが、もう生きられぬ。生きていたいのだが死んで行かねばならぬ。懐かしき山川とも別れなければならぬ。春が来ても花が見られぬ。秋になっても月が見られぬ。
 人と別れ、万象と別れ、最も親しい肉体とも別れて、冷たい遺骸を地上に横たえねばならぬ時が来た。今現にその時である。心の動揺は抑えきれぬ。人生は絶望と苦悶がその最後であるか、否か。この時に当たって安価な哲学も、偽宗教の教えも、あきらめ主義も何の役にも立たぬ。

 健康な時には欲が出る。死ぬることを考えていない時には、家も屋敷も、名誉も金銭も、女も酒も、駆け引きも手段も、私利私欲を満足させるために必要である。朝目が覚めると、どうして生きようかと考える。無意識にも考えておる。夜は寝るまで考えておる。夢はことごとく我欲の化け物ばかりである。
 そのような人間生活をしておる時は、死の風がどこに吹いているかということも念頭に留めないで、ただ馬車馬のように「五欲街道」をひた走りに走っておる。世界中のほとんどすべての宗教はこの「五欲街道」の修理道具であるまいか。
 「病気が治る」という看板も、「貧乏が助かる」という宣伝も、「災厄がのがれられる」という説教も、「幸福が得られる」という教義も、所詮は人生五欲の苦しき街道を修繕して、少しばかり車の滑りのよきようにする一時的のごまかしに過ぎないのではないか。それでも「宗教だ」「世界一の宗教だ」「救われる道は俺のところだけだ」と叫んでおるが、よく考えてみれば「人生街道」「五欲道路」を修繕する道具の宣伝にしか見受けられないが、どうだろうか。死の宣告を受けて、自己の死を眼前に見詰めた者に、そんな宣伝がどれだけ効き目があるか。
 宗教を説く人よ、宗教を宣伝する人よ、君たちの傍に死の宣告を受けた人がおることを忘れてはならぬ。また君たちも医者や法律によらずして、死の宣告を受けている身であることを忘れてはならぬ。
 死ぬると決まった人たちに君らはどんな言葉を以て教えを説くか。どんな行いをしてみせるか。来世を説くか。教祖は佛か菩薩か、または五欲の奴隷か。経典の持ち合わせがあるか。「五欲街道」の修理道具をいくら振り回しても駄目である。

 今母が 今臨終が わが子ぞと おもひて説けよ まこと つくして (瑞劔)

 こう言いつつペンを走らせておる自分も、今現に一秒間の休みなく、温かい血汐は氷と混じり、ぐるぐる回転する眼玉は静止と握手し、呼吸の音も峯の松風の中に永久に消え去りつつあるのである。
 死の宣告を受けた人はすでに時限爆弾に点火されたのであるが、自分は時をえらばぬ噴火山の爆発が地下で今進行中である。死は同じように必然的にやってくる。他人の死は平然と見ておられるが、自分の死は驚懼せずにはいられまい。戦慄せずにはおられまい。

 世の多くの宗教よ、汝は人類に対して生の幸福を与え得るならば、何故に死の解決を与えることができないのであるか。生の幸福は五欲街道の修理ではないか。街道を五十年、乃至百年、人体という車を走らせて、果てはどこへ連れて行こうとするのであるか。
 死の宣告を受けた者は五欲街道の彼方に何があるかを知りたいのだ。街道がすでに破滅してしまった彼には、道なき道が見付けたいのだ。暗黒の中に大道を望み見たいのだ。否、その大道を自分は安らかに闊歩しつつあるという大自覚を持ちたいのだ。
 最早「人間街道」の話ではいかん、教訓でもいかん、哲学でもいかん、修理道具を見せつけたところで駄目である。死に赴くところの人は空腹を痛感しておるのである。文化の修理道具でも、理知増進の道具でも、幸福製造機でも、彼の空腹を満たしめることはできない。どうするのだ。彼は求めておる。彼は人生最高の食物を求めておる。真の宗教を求めておる。死と暗黒と絶望の淵に光る大道を求めておるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2024年4月10日水曜日

不定界に生をうけて今日まで長らえたること

 何事も遷(うつ)り変わりしておる定めなき世の中に徒に(いたずらに)明かし暮らして、無常転変の世・露のごとき命とも知らず安住の思いをなすのは、我らの迷える顛倒した考えであります。

 たれもまた かくやなるみの 夕日潟 今日をも知らぬ わが命かな(古歌)

 一面には罪に汚れし身を生死の大海に漂没せしめておる、あわれはかなき自己であるとさとりつつ、また一面には如来大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かんだ身であれば、佛の御国より吹き来る風は静かに、寄せ来る禍の波は金銀の珠玉(たま)とくだけ、常夜なりし迷いの闇もくまなく晴れて、命終われば速やかに無量光明土に到りて、法性常楽のさとりを開き得ると信じさせていただくのが、我らの信仰であります。

 不定(ふじょう)の人界に生をうけながらも光明の広海に浮かぶ身となって、今日までわが身ありがおの体をよそおいながらも儚き露命をつながせていただいたればこそ、垢障(くしょう)の凡身を以て如来の御用を勤めしめたまえること、ありがたくも尊きことであります。

 中国に傅(ふ)大士という大徳がおられましたが、この方は生きながら兜率天に生をうけておると観ぜられた聖者であると伝えられていますが、我らは勿体なくも佛様の正覚の蓮華に坐し、お浄土の聖き人たちのうちに入れられています。
 すでに御佛の救いの御手に抱きとられている身であるという信念一たびおこれば、六道生死の業のきずなは断(き)れ果てているのであるから、生も死も何ら念頭にかかる雲もなく、朝な朝な御佛とともに起き、夕な夕な御佛とともに臥し、一如法界の真身が顕るる時を待つばかりの身であります。

2024年4月5日金曜日

御法にあいしこと

 親鸞聖人は、人並みにすぐれて御自身が如来様の御法に遇われ信心を獲られ、生死の大海もこれを後にして、光明のうちに住む身となられたことをよろこばれて、遠き宿世の因縁、佛の限りなきみ恵みを憶われ、「遇(たまたま)行信を獲れば遠く宿縁を慶べ」と仰せられました。
 たとい人間に生まれさせていただいても、またしても三悪道にかえるならば、何のよろこびがありましょう。生まれ難き人間に生まれ、遇い難き佛法に遇い、聞き難き御法を聞き、発し難い信心を発させていただいたことは、比べるもの無きよろこびであります。親鸞聖人は、

 「如来の興世にあひがたく 諸佛の経道ききがたし
   菩薩の勝法きくことも  無量劫にもまれらなり」

 「善知識にあふことも    をしふることもまたかたし
  よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」

と仰せられておよろこびになりました。

 天人は結構に見えていても天上の楽に耽って却って向上の一路を見失い、地獄は苦しみに遑なくしてこれを離るる術を知らず、されば人間界にのみ三世の御佛は出世して、衆生済度の妙法を説かるるということであります。人間に生まれて佛法を聞くことは「優曇華に遇った」とも「盲亀の浮木にあえるが如し」とも譬えてあります。
 親鸞聖人は、釈尊御一代の経経を信ずるよりも、弥陀如来の本願を信じよろこぶことは困難なことである、困難中の困難であって、これ以上の困難は世の中にはない、といった意味を述べさせられて、

 「一代諸教の信よりも  弘願の信楽なほかたし
  難中之難とときたまひ 無過斯難とのべたまふ」

と仰せられました。また蓮如上人は、

 「難中之難とあれば、かたくおこしがたき信なれども、佛智よりやすく得せしめたまふなり」

と仰せられました。

 私たちは、高僧たちのお言葉をいただき、また、よく自分の身に振り返って考えてみて、かかる無智憍慢のいたずらものであれば、とても自分の力では信じ得らるる筈でない最尊最高の妙法を、諸の聖尊がいろいろの善巧方便をもって、これを信ぜしめたまいしことをよろこばねばなりません。『安心決定鈔』には、

 「弥陀は兆載永劫のあひだ、無善の凡夫に代わりて願行を励まし、釈尊は五百塵点劫の往昔より八千返まで世に出でて、かかる不思議の誓願を吾等に知らせんとしたまふを、今まで聞かざることを慚づべし」

といましめてあります。また親鸞聖人は、

 「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したる本願のかたじけなさよ」

とつねに御述懐あらせられました。御法悦にあふれたこのお言葉は、私たちの胸にひしひしとせまりくる感があります。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2024年3月20日水曜日

願力一つ

  私は、いくら聞いても、いくら書物を読んでも、思うても、煩悶しても、参れそうなところは、自分に一つも見付からぬ。落ちるより仕方がない。「落ちるより仕方がない」が徹底した時が、「本願力は大きいでなあ」が聞こえてきた時である。

 信心は、自分の力で、自分で極めるものではない。自分としては、理屈も道理もない。阿弥陀さまがお助け下さるから、助かるのである。如来様が「心配するな南無阿弥陀佛」と喚んでくださるから、参られぬ者が参られるのである。そこには道理理屈はない。ただただ如来様の本願力である。
 「心配するな南無阿弥陀佛」ということが「本願力」である。南無阿弥陀佛である。また「本願招喚の勅命」である。
 本願力にて往生するのである。南無阿弥陀佛にて往生するのである。自分の思いでは参られぬ。自分の思いは凡心である、妄念である。本願力は佛心であり、佛智であり、佛力である。信巻に曰く、

 「佛力難思なれば古今も未だ有らず」

と。末代今の世にも不思議なことがあるものだ。不思議の中の不思議は、本願力の不思議である。この私がお浄土へ参らせていただくことである。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

   人生の 浮沈も親と もろともに   瑞劔  心の影法師を追い回すたびごとに、「それが無上佛に成るに何の役に立つか」と考えてみる必要がある。「知った」「覚えた」ことばかりが耳の底に残っていては、聞いた所詮がない。  「凡夫のすることは、何一つ役に立たぬ」となれば心さみしく思う...