2019年11月17日日曜日

よびごえのうちに

 浄土真宗は、人間が佛を信ずるということに於て成立しておるのではない。如来の正覚、すなわち南無阿弥陀佛の大悲大願のうちに成立しておるのである。
 凡夫が信ずるから、信心取ったから往生するというのでなくして、われらが往生成就するすがたが南無阿弥陀佛の本願招喚の勅命となっておることを、忝く、有り難く聞かせてもらうのである。これが他力というもので、すなわち如来の本願力これである。
 聞いてから心が変わるとか、心がよくなるとか、といった問題は、人真似か聞きおぼえか、あるいは信前の人に名願力の功徳を説いた結果であろう。こちらはいつも、聞かぬむかしの赤児である。
ー 稲垣瑞劔師『法雷」第4号(1977年4月発行)

2019年11月2日土曜日

往生ほどの一大事

 恩師 桂利劔先生が六十才頃であった。
 隣村に相当の学者で、二十年間、全国に布教に回っておられた御僧侶が居られた。病気になられた。いざ臨終という時に「ウロ」(疑雲)が湧き起こった。そこで奥さんに「隣村の桂先生を呼んできてくれ」と申された。
 奥さんはびっくりして「こらどうした事か」と思われたが、早速小走りして光台寺(能登川町今村)に行き、桂先生に「今うちの住職が臨終であります。桂先生を呼んで来てくれと申されますので、どうぞすぐお越し頂きたい」と申し上げた。
 桂先生はそれを聞くなり、急いで病人の寺へ行かれた。病人は合掌して感謝の意を表しておられた。
 先生は、枕元に座って朗々たる音声を発して、

「往生ほどの一大事、凡夫のはかろうべき事にあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。」(執持鈔)

と二回申された。
 先生の厳粛なる態度、亮朗たる音声は、深閑とした病室に満ち、法界に震動した。正しく「正覚大音 響流十方」のすがたであった。
 即座に病人は、笑みを含み、称名念仏の唇が動いたかの如く見受けられたが、そのまま往生の素懷を遂げられた。


 そこじゃ、これじゃ。
「往生ほどの一大事、凡夫のはかろうべき事にあらず」
この一句は千万鈞の値打ちがある。
 「死」の関門は、道理理屈では通られぬ。学問や知識では通られぬ。「凡夫の思い」や「はからい」では通られぬ。「死の関門」を透得した人は乾坤に独歩した人で、白道を闊歩する人である。
 本願一実の大道、あれが「大悲招喚の勅命」であり、「至心信樂己を忘れて無行不成の願海(行として成らざること無き本願力)に帰した」大信心である。
 これを見よ、「大道」と「勅命」と「本願力の南無阿弥陀佛」と、「帰命の大信心」と一つになったのが「本願一実の大道」である。

 お浄土参りの「白道」は、凡夫自力のはからいではない。知解分別ではない。「知識」でもなく、「思い」でもない。「自分は凡夫である」ということを知らねばいかん。凡夫は「妄念」の固まりである。
 「妄念は凡夫の自体なり、妄念の外に別に心は無きなり」(横川法語)
 これが分かったら、お浄土の門まで行ったところである。お浄土の門までも行く人は少ないが、門の中まで入る人は千人に一人か二人であろう。

   奥深き 事を知ろうと 思うなよ 南無阿弥陀佛が 奥の奥なり(瑞劔)

ー 稲垣瑞劔師「法雷」第3号(1977年3月発行)

No.139