凡夫が信ずるから、信心取ったから往生するというのでなくして、われらが往生成就するすがたが南無阿弥陀佛の本願招喚の勅命となっておることを、忝く、有り難く聞かせてもらうのである。これが他力というもので、すなわち如来の本願力これである。
聞いてから心が変わるとか、心がよくなるとか、といった問題は、人真似か聞きおぼえか、あるいは信前の人に名願力の功徳を説いた結果であろう。こちらはいつも、聞かぬむかしの赤児である。
ー 稲垣瑞劔師『法雷」第4号(1977年4月発行)
世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。 真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...
2 件のコメント:
他力といふは如来の本願力なり。(教行信証行巻)
親鸞聖人の教えのとおりお話しいただいたのですね。
現代語訳⇒ http://labo.wikidharma.org/index.php/現代語_行巻#A--81
原文⇒ http://labo.wikidharma.org/index.php/顕浄土真実行文類-漢文#no81
「親鸞聖人の教えのとおり」とは、ありがたい一言です。
蓮如上人も、わが身の字ちからをもって聖教をよむことを深く誡められておられます。熟々慎まねばなりません。
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