2019年11月17日日曜日

よびごえのうちに

 浄土真宗は、人間が佛を信ずるということに於て成立しておるのではない。如来の正覚、すなわち南無阿弥陀佛の大悲大願のうちに成立しておるのである。
 凡夫が信ずるから、信心取ったから往生するというのでなくして、われらが往生成就するすがたが南無阿弥陀佛の本願招喚の勅命となっておることを、忝く、有り難く聞かせてもらうのである。これが他力というもので、すなわち如来の本願力これである。
 聞いてから心が変わるとか、心がよくなるとか、といった問題は、人真似か聞きおぼえか、あるいは信前の人に名願力の功徳を説いた結果であろう。こちらはいつも、聞かぬむかしの赤児である。
ー 稲垣瑞劔師『法雷」第4号(1977年4月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

他力といふは如来の本願力なり。(教行信証行巻)
親鸞聖人の教えのとおりお話しいただいたのですね。

現代語訳⇒ http://labo.wikidharma.org/index.php/現代語_行巻#A--81
原文⇒ http://labo.wikidharma.org/index.php/顕浄土真実行文類-漢文#no81

光瑞寺 さんのコメント...

「親鸞聖人の教えのとおり」とは、ありがたい一言です。
蓮如上人も、わが身の字ちからをもって聖教をよむことを深く誡められておられます。熟々慎まねばなりません。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...