2025年4月10日木曜日

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして

 「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。
 ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛に力こぶを入れ、念佛を己が積む善根と思い、真実報土の往生を遂げない人もあろう。
 また、人まねばかりの念佛を行じて往生を仕損ずる人もあろう。また「念佛せよ」とあるからといって、念佛して如来の本願に自分の方から添おうと自力心を運ぶ人もあろう。また、何のことやら分からぬ輩もあるであろう。
 「ただ念佛して」と聞いて、念佛を称えて参ろう、と自力心を運ぶ人は、ただ表面の文字だけを読んで、本願のこころをいただき得ない人である。「語中に語無し」とは、その種の人を諭す言葉である。念佛を正定業と思いはからうすら、凡夫自力のくわだてである。

 お聖教の文字は、本願力を信じた人には、字字ことごとく、法身・般若・解脱の光明とも見られ、また親鸞聖人の法身とも見られ、また如来様とも拝みたてまつられるであろう。かかる場合には、その人は、文字を読んで文字を離れている。離れているが、文字をいただいている。
 お聖教の文字を活かすものは信心である。これを殺すものは疑心自力である。ただただ恭敬の心をもっていただくべきである。たとい一句の法門でも、これ以外に自分の助かる道がないと思えば、地獄で佛に逢うた思いをもって深く味わい、篤く貴ぶことができる。
 法霖師は『日渓学則』に、離るるは則するなり、則するは離るるなり」と申された。これが円解証入(真実の信心)の人である。

稲垣瑞劔師「法雷」第92号(1984年8月発行)

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