2023年10月25日水曜日

法が法をたのませてくれる

 お聖教を拝読すると、お聖教が何もかも教えて下さる。お聖教のことばは如来さまである。如来の全身である。お聖教のことばは、山河大地山川草木と同様、法身佛の光明である。
 お聖教のことばは亦、阿弥陀如来の悲智円満の本願力そのものである。また近くは親鸞聖人の法身である。それでこそ我等凡夫がお聖教のことばに接すると、お聖教の文字が教えてくれる。
 佛法を説くものは佛法であり、佛法を信ずる心も佛法である、本願力をたのむ信心も本願力である。それでこそ「願力回向の信心」と言われるのである。本願力がはたらいて、私を往生させて下さる他に、私の往生する道はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2023年10月20日金曜日

佛に成ろうと歩み出してみると

 学問というものは、頭だけでものを考え、ものを覚えるというだけでは不十分である。人間の行いに移し、実行してみなければ、ほんまものにならぬ。
 佛教でも、佛は大智大悲の人であるというだけでは、分かったようで分からぬ。自分がその大智大悲の佛に成ろうと一歩踏み出してみると、罪悪も出て来ようし妄念妄執も出て来ようし、夢の中では、泥棒をしたり人殺しをしたりするようなおそろしい心も、もともと自分の心の底にあると見えて、夢に出てくる。それらの始末に困る。

 その困り方も、自分が佛に成ろうと志願して、いざ修行をしようとなると、その困り方は言語を絶するものがある。その始末を本気で、真剣でしようとかかったとき、『歎異抄』のお言葉、「和讃」の一語一語が、しみじみと身に応える。聖人の前に、ひとりでに頭が下がる。地獄極楽も、修行しようと踏み出した人には現実の問題である。

 どうしたら心が絶対に浄くなるだろうか、どうすれば心が徹底的に分かるであろうか、どうすれば大慈悲者になれるであろうかと、思案するだけではあかん。本気でやりかけてみたならば、そこに佛教の大小乗の教々も先人の苦労も分かってくる。この思いで佛教を聞かぬと佛教は分からぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

2023年10月15日日曜日

無義をもて義となす

 日本に生まれたことはありがたい。法然上人、親鸞聖人、源信和尚様が日本人であらせられたから、一層の親しみがある。
 あのようなえらい人たちが「無義をもて義とし」て、南無阿弥陀佛の佛智に、本願力に、大悲に安(やす)ろうておられるすがたを眺めると、大丈夫、親船に乗った気分で、ほかのことは何も考えないで、ただ信じ、平に信じ、ただお言葉をそのままに信じさせていただくことができる。これが「はからい」のないというものであろう。この他は皆「はからい」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

2023年10月10日火曜日

えらい、えらい佛様

 浄土真宗は果海顕現の大法門である。佛の荘厳(不虚作住持功徳)が、ぞろっと娑婆世界に現れてくださったのが、衆生往生の法門、信心成就の大本源である。
 往生は、信心忘れて、聞いたということも忘れ、聞かぬ昔の泥凡夫に引きおろされて、唯だ阿弥陀如来様を憶念して、本願力によりて往生させていただくのである。「どうしても助からぬ者」を助けて下さるのが、阿弥陀如来という親様である。不思議な、ありがたい、えらい親様である。えらい佛様である。

 親様ござる 何のことないわい (瑞劔)

  「自分はこう聞いておる、これでよし」と思うことが大きな瑕のもとである。「これでよし」もいかん、「これではいかん」もよろしくない。それらは自分の思いである。思いはまた変わるぞよ。

 いくたびか 思い返して 変わるらん
  たのみがたきは わが心かな (瑞劔)


 要するに、佛様がありがたく、佛様はえらい不思議な親様であるということが分からなくては何にもならぬ。信心いただいて念佛称えてよろこんで、安心してから参ろうと思う心は皆自力のはからいである。
 如来様が尊い御方であると思わせていただくまでには、何百何千という難関が出てくる。それらの難関にぶつかって行き詰まる、行き詰まらぬ者には開けるときは来ない。

 行き詰まれ行き詰まれ
   早う行き詰まれ とことん行き詰まれ(瑞劔)

  
 思うようにならぬのは我が心、我が心が我れの思うようになったとて、それで参れるお浄土ではない。唯だ佛力によりてのみ参らせていただくのである。

 「佛力難思なれば古今も未だ有らず」(信巻)

 佛力は難思である、弘誓は難思である。名号は難思である、無碍の光明は難思である。難思とは不可思議ということである。

「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(総序)

と。この外に凡夫が助かる道はない。これを思え、これを念え。二十年か三十年この聖句を毎日憶念して、この聖句に徹するがよい。聖句を忘れて信心はない。
 覚えることが信心ではない、よろこんでおることが信心ではない、安心しておることが信心ではないが、聖句に徹して、佛力のうちに、佛智のうちに、大慈悲力のうちに安心させていただくのである。

 「教と佛語にしたがへば 外の雑縁さらになし」

 「よきひとの仰せをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

No.139