2023年10月20日金曜日

佛に成ろうと歩み出してみると

 学問というものは、頭だけでものを考え、ものを覚えるというだけでは不十分である。人間の行いに移し、実行してみなければ、ほんまものにならぬ。
 佛教でも、佛は大智大悲の人であるというだけでは、分かったようで分からぬ。自分がその大智大悲の佛に成ろうと一歩踏み出してみると、罪悪も出て来ようし妄念妄執も出て来ようし、夢の中では、泥棒をしたり人殺しをしたりするようなおそろしい心も、もともと自分の心の底にあると見えて、夢に出てくる。それらの始末に困る。

 その困り方も、自分が佛に成ろうと志願して、いざ修行をしようとなると、その困り方は言語を絶するものがある。その始末を本気で、真剣でしようとかかったとき、『歎異抄』のお言葉、「和讃」の一語一語が、しみじみと身に応える。聖人の前に、ひとりでに頭が下がる。地獄極楽も、修行しようと踏み出した人には現実の問題である。

 どうしたら心が絶対に浄くなるだろうか、どうすれば心が徹底的に分かるであろうか、どうすれば大慈悲者になれるであろうかと、思案するだけではあかん。本気でやりかけてみたならば、そこに佛教の大小乗の教々も先人の苦労も分かってくる。この思いで佛教を聞かぬと佛教は分からぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「佛に成ろうと歩み出してみると」
とタイトルにあります。

成仏道、生死出づべき道、後生の一大事、厭離穢土 欣求浄土、人生の目的など、
すべて同じ自ら求めていく道であります。時間も体力も限りがあります。
ダンマ(法)はやってくる。

光瑞寺 さんのコメント...

如実の修行となれば、大小乗の教々の功徳、先人の苦労に頭が下がるものなのでしょう。そこまでがなかなかです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...