学問というものは、頭だけでものを考え、ものを覚えるというだけでは不十分である。人間の行いに移し、実行してみなければ、ほんまものにならぬ。
佛教でも、佛は大智大悲の人であるというだけでは、分かったようで分からぬ。自分がその大智大悲の佛に成ろうと一歩踏み出してみると、罪悪も出て来ようし妄念妄執も出て来ようし、夢の中では、泥棒をしたり人殺しをしたりするようなおそろしい心も、もともと自分の心の底にあると見えて、夢に出てくる。それらの始末に困る。
その困り方も、自分が佛に成ろうと志願して、いざ修行をしようとなると、その困り方は言語を絶するものがある。その始末を本気で、真剣でしようとかかったとき、『歎異抄』のお言葉、「和讃」の一語一語が、しみじみと身に応える。聖人の前に、ひとりでに頭が下がる。地獄極楽も、修行しようと踏み出した人には現実の問題である。
どうしたら心が絶対に浄くなるだろうか、どうすれば心が徹底的に分かるであろうか、どうすれば大慈悲者になれるであろうかと、思案するだけではあかん。本気でやりかけてみたならば、そこに佛教の大小乗の教々も先人の苦労も分かってくる。この思いで佛教を聞かぬと佛教は分からぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)
2 件のコメント:
「佛に成ろうと歩み出してみると」
とタイトルにあります。
成仏道、生死出づべき道、後生の一大事、厭離穢土 欣求浄土、人生の目的など、
すべて同じ自ら求めていく道であります。時間も体力も限りがあります。
ダンマ(法)はやってくる。
如実の修行となれば、大小乗の教々の功徳、先人の苦労に頭が下がるものなのでしょう。そこまでがなかなかです。
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