2024年2月25日日曜日

死の解決㈤

 こちらが心を用いず、力を用いずして、助かる法が南無阿弥陀佛の本願力のよび声である。
 顔をするのがいかん、ありのままがよい。生地のままがよい。信者顔、心得顔、学者顔、善人顔、顔をするのは、メッキかペンキ塗りである。狐や狸は人を騙すものであるそうだが、一番自分を騙すものは、自分の心である。
 「大風に 灰を撒いたる 我が心」を忘れると、つい自分の心が自分を騙す。博士になって書物を書いて、人に説教すると、つい自分が偉い者になったような気がするものである。佛法の上では、それが心を騙したというものである。佛法の上では、いつ見ても、

 「往生ほどの一大事、凡夫のはかろうべきことにあらず、
  ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」(執持鈔)

を忘れぬことが肝要である。
  
 「死の解決」は、如来様が一切衆生の為に「死の解決」をして下さって、正覚を成ぜられた「大正覚」が、そのまま、今、私の「死の解決」である。
 わき見をするのがいかん。隣の花は赤く咲く。
 妙好人を見て、あの人のようになりたいと思うのがいかん。凡夫はあんなに美しいものではない。鶴の脚は長いなり、鴨の脚は短いなりでよい。
 こう成って参ろうがいかん。自分の思うように、自分の心が成ってくれぬ。成ったところで、また変わる。

 「人心 池の水にも 似たりけり
    にごり澄むこと さだめなければ」(法然上人)

 死を遠いところにおいておくからいかん。今、臨終と思えば、臨終に「ああなって参ろう」「こうなって参ろう」と思うかどうか。どうにもこうにもならぬ、罪業深重の自分が、死を待っておるのみでないか。法門沙汰は、もう間に合わぬ。自分の思いは間に合わぬ。落ちる私と、落ちつつある私を「そのまま」助けたもう如来様とがあるのみである。

 祖師聖人の命がけのお言葉は、末代の衆生、一人でも多く往生してくれよの大悲の念願より書き出されたところの、

 「難思の弘誓は難度海を度する大船、
  無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」

の一句である。この一句のうちに、聖人の法身たる『教行信証』がこもっておる。一生涯かかって此の聖句を味わうがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年2月20日火曜日

死の解決㈣

 他の宗教は、個人が神にお祈りし、神は個人の祈りを聞いて救いの手を延べるという。祈祷は、個人の利益のために個人が神に祈るのであるから、まことの心の平和は、いつまで経っても来ない。
 無碍の光明は、十方衆生を照らす普遍的の光明であるから、これを仰ぐとき、この光明と一味にせられて、ここに永久不変の大信を与えられ、無碍の光明のうちに永遠に安住するのである。
 尽十方の無碍の光明は、法界の真理である。衆生の悪業煩悩の黒闇を晴らすところの力である。この光明を仰がずして信心もなく、往生もなく、「死の解決」はない。光明を仰ぐは光明の力である。

 ああ あの月が 讃うる声も 光りなり

 月を見るには、心を空にして見ないと、美しい月は見られぬ。ホトトギスの声を聞くのも「心をば 空にして聞け ホトトギス」でなくては、美しい声は聞かれぬ。
 それと同様に、如来大悲の月を仰ぎ、本願名号の声を聞くのには、素直になって、正直になって、阿呆になって、自分の私見を差し挟まず、教えを教えの通りに聞かなければ、教えが自分を生かしてくれぬ。

 浄土真宗は「果上顕現の法門」である。如来様の智慧と慈悲との力が、教行信証である。すなわち浄土真宗である。このような高い法門を聞くには、ただ一念帰命の信順あるのみである。
 帰命の一念によりて「死の解決」は成し遂げられる。凡夫の学問や思いでは解決できない。私の「死の解決」を成し遂げて下さるものは、自己の力にあらずして、「難思の弘誓」と「無碍の光明」である。「仰いでは讃嘆、俯しては慚愧」、これが「死の解決」が出来上がったすがたである。

 月は天空に照り輝いておる。どうしたら月が見えるか、どうして月を見ようか、見えるであろうか、見えぬであろうかと、心を煩わす必要は少しも無い。

 藪かげを 出でて仰げば 月一輪 (瑞劔)

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年2月15日木曜日

死の解決㈢

 「大言俚耳(りじ)に入らず(通俗に人に理解されがたい)」と。
 佛教は印度に生まれたが、キリスト教のごとく、モハメット教のごとく全世界に拡がっておらぬ。印度国民は今なおお釈迦様を尊ぶこと日本人以上であるが、佛教信者は僅かにセイロン島に見られるだけである。それも大乗佛教でなくて、小乗佛教のみである。歴史の変遷は人智を超え、想像を超えたものがある。
 善いものが繁昌するというの一面の真理であるが、また善いから繁昌しないというのも一面の真理である。蘭は少なく雑草は多く、紫檀黒檀は少なく雑木は多く、ダイヤは少なく土砂は多い。佛教はダイヤのごとく、紫檀のごとく、また蘭のごときものか。

 真理は善いもの、道徳は善いものであるが、濁れる社会には受け入れられない。科学文明は進んであるが、精神文化は衰え切った社会には、佛教のような尊い教え、清浄な教え、真理の教え、真実に人間を救う教えは、堕落した世には適合しないのが自然である。
 さればこそ、古の名僧知識は、心血をそそいで佛法の興隆に力を入れられたのである。「法は重く、身は軽し」とは彼らのモットーであった。道元禅師は申された、

 「佛法は佛法の為に学ぶべし」

と。『大経』に言く、

 「此の法、止住すること百歳ならん」

と。「佛法のような尊いものが、凡夫風情の耳に入ってたまるものか」とは、瑞劔の常語である。
 とは言うものの、また一面から考えるに、真理は永遠である、朽ち亡ぶことはない。ゲーテは『ファウスト』の中で言った、

 「輝けるものは一時の栄え、真なるものこそ永遠に残れ」

と。親鸞聖人は「化身土巻」に曰く、

 「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛んなり」

と。
 「死の解決」は個人の問題である。個人とは、これを主観的に見た場合、「我愛」と「我執」、「我見」と「我慢」である。個人が個人を救うことはできない。我執を退治するに我執を以てしては退治することができぬ。闇を晴らすに闇を以てして晴れない。闇を破するものは必ず光明でなくてはならぬ。
 「死の解決」は、個人の闇(悪業煩悩)の解決である。これが解決は必ず如来の無碍の光明、すなわち本願名号の力でなくてはならぬ。信心を得たならば往生すると聞き、信心を得ようといかに個人が考えても、思うても、悪業煩悩の解決にはならぬ。分かり切ったことであるが、事実はこの一点を理解しておる同行が同行が少ない。
 自己の悪業煩悩の解決は、必ず他力に依らなくてはならぬ。他力とは、如来の本願力である。聖人のたまわく、

 「願力を聞くによりて報土の真因決定す」

と。本願は名号であり、名号は本願である。光明は名号であり、名号は光明である。
 無碍の光明、これ一つが、私の無明煩悩の闇を破したもうのである。無碍の光明のうちに難思の弘誓があり、難思の弘誓のうちに、無碍の光明がある。名願力が私の胸に徹到するほかに、信心もなく、往生もなく、「死の解決」はない。 

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年2月10日土曜日

死の解決㈡

 神を信ずれば救われるという。救われたといって神に成れるか、生死の苦輪を脱することができるか。涅槃常楽の「真実智慧無為法身」という佛に成れるか。
 この人生最高の理想が達成されないとすれば、それは救いでもなく、解脱でもなく、「死の解決」ではない。
 世界の宗教は幾十万あるが、この一点を、唯だこの一点を解決し得た宗教は、また解決し得る宗教は、本願一乗、すなわち如来の大智大悲の声のみである。
 この大問題の解決が、凡夫の知解分別や、自分はこう思っているといった小刀細工で解決し得られるわけがない。これは科学でも哲学でもいかん。

 「死の解決」は大信心である。信心の解決は、大智大悲の如来の真実心による解決である。「鹿を追う者は山を見ず」と、自己の信心のみを見て、如来と、正覚と、本願名号を忘れておるのは信心ではない。

 経に曰く「正覚大音、響流十方」と。正覚大音は、如来の方にて、衆生の往生を成就したまいし大音、南無阿弥陀佛である。これを「果上円成」とも「果上顕現」とも、「二利円満の大正覚」ともいう。
 これを知らずして、自分が信心取って、自分が往生しようと思うておることは、未だ真宗を知らざる者と言わなくてはならぬ。

 信心は人格と人格との触れ合いである。真実の如来と迷妄の凡夫と感応道交して、凡心が佛心に丸められたのが信心である。
 「信心を取る」「もらう」「いただく」という、その信心は佛心なることを知らず、本願力なることを知らず、本願名号の他に別に「信心」という牡丹餅があるように思っているのは間違いである。
 信心は如来から発せられたる大智大悲の放射能を、凡夫が霊感せしめられるだけである。放射能の他に霊感はない。勅命の他に信心はない。信心は「よび声」である。南無阿弥陀佛である。のらくら者にはこの霊感がない。霊感は事実である。
 一心不乱に御聖教を拝見しておると、毎日毎時、いつ何時でも如来様の生の声を聞くことができる。お経は死んだものではない。如来の全身である。如来の生ける大生命である。人が法を説くというが、法が法を説き、法が法を教えて下さる。
 誓願不思議を「不思議なことや」と感じされられたのが霊感である。

 「親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」

とは、これすなわち霊感である、霊感の声である。
 知った信心、何にもならぬ。首から上の佛法は何にもならぬ。知解分別の氷が溶けて、円解証入の水とならねばならぬ。円解証入を佛智円照という。これ如来より賜る霊感である。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年2月5日月曜日

死の解決㈠

 臨終には、久遠劫来の悪業煩悩が病苦と共に病人を苦しめる。心気朦朧として、ただ吐く息ばかりである。力も、智慧も、聞く耳さえ持たぬ。健康な時もそれに似たようなもので、実にあわれな、おろかな、いたずらものである。佛に成るためには、自分の力が少しも無いことは同然である。如来の本願は、このために起こったのである。
  
 世の中には難しいものが沢山あるが、「死の解決」ほど難しいものはない。
 火山の噴火も、洪水も、震災も大きな出来事である。然しながら、もっと自分にとって大きな問題は、自分が一人地球上から辞職して、死んで行くということである。
 「独生独死、独去独来」は世の習い、「生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは遂に衰う」のは、因果必然の道理とはいいながら、現実に自分が今死んでゆくということは、これは対岸の火事ではない。これほど大きな問題は、宇宙間にまた二つとない。

 人の死せんとするや、絶対絶望、絶対孤独、絶対闇黒、絶対恐怖である。自己が死ぬることは、天地一時に滅するよりも、もっと大きな問題である。

 人間は生を欲し、死を怖れる。だからといって、死は共通の悲しき運命であると平然としておられるものかどうか、他人の死でない、自己の死である。一般論ではない、自己という生ける個人の問題である。これは議論で片付けられる問題ではない。

 人間は「最高善に到達せよ」「智慧と慈悲を円満せよ」「大自由を獲得せよ」と、内心秘奥の或るものが叫び、叫び続けて止まない。それができないで死んでゆく、死の事実、自己の死の事実を如何にして解決するか。あきらめ主義では解決にならぬ。学問でも、思慮分別でも解決できない。不安と闇黒と恐怖のうちに死んでゆくのは解決ではない。

 「今、臨終だ。さあ、どうするか。」

 これを宿題として千辛万苦の末に、佛の教えに依りてのみ、之を解決して初めて「死の解決」といわれるのである。
 「死の解決」は、凡夫の力ではいかん、必ず大聖釈迦牟尼世尊、近くは高祖親鸞聖人の御教えに依りてのみ、解決し得られるのである。
 どの宗教も「死の解決」を説くのであるが、真に「死の解決」を為し得る宗教は、唯だ佛教あるのみである。唯だ浄土真宗、本願一乗あるのみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

No.139