2024年2月20日火曜日

死の解決㈣

 他の宗教は、個人が神にお祈りし、神は個人の祈りを聞いて救いの手を延べるという。祈祷は、個人の利益のために個人が神に祈るのであるから、まことの心の平和は、いつまで経っても来ない。
 無碍の光明は、十方衆生を照らす普遍的の光明であるから、これを仰ぐとき、この光明と一味にせられて、ここに永久不変の大信を与えられ、無碍の光明のうちに永遠に安住するのである。
 尽十方の無碍の光明は、法界の真理である。衆生の悪業煩悩の黒闇を晴らすところの力である。この光明を仰がずして信心もなく、往生もなく、「死の解決」はない。光明を仰ぐは光明の力である。

 ああ あの月が 讃うる声も 光りなり

 月を見るには、心を空にして見ないと、美しい月は見られぬ。ホトトギスの声を聞くのも「心をば 空にして聞け ホトトギス」でなくては、美しい声は聞かれぬ。
 それと同様に、如来大悲の月を仰ぎ、本願名号の声を聞くのには、素直になって、正直になって、阿呆になって、自分の私見を差し挟まず、教えを教えの通りに聞かなければ、教えが自分を生かしてくれぬ。

 浄土真宗は「果上顕現の法門」である。如来様の智慧と慈悲との力が、教行信証である。すなわち浄土真宗である。このような高い法門を聞くには、ただ一念帰命の信順あるのみである。
 帰命の一念によりて「死の解決」は成し遂げられる。凡夫の学問や思いでは解決できない。私の「死の解決」を成し遂げて下さるものは、自己の力にあらずして、「難思の弘誓」と「無碍の光明」である。「仰いでは讃嘆、俯しては慚愧」、これが「死の解決」が出来上がったすがたである。

 月は天空に照り輝いておる。どうしたら月が見えるか、どうして月を見ようか、見えるであろうか、見えぬであろうかと、心を煩わす必要は少しも無い。

 藪かげを 出でて仰げば 月一輪 (瑞劔)

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

浄土真宗は「果上顕現の法門」である。
とあります。
初めて聞いた言葉で、少し調べてみましたが、よくわかりませんでした。
「阿弥陀様が南無阿弥陀仏という果となった上に、衆生のうえに、現れてくださっている。」としました。
先生にお伺いしたいところです。

光瑞寺 さんのコメント...

そのご解釈でよろしいかと存じます。
「上」は〈~において〉(例;理論上)といった意味でしょう。
瑞劔師のご著述では、我等の行も信も如来の側でご成就して「心配するな」と喚んでくださっている、という状況を表す言葉として、「果海顕現」などとも表現されています。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...