他の宗教は、個人が神にお祈りし、神は個人の祈りを聞いて救いの手を延べるという。祈祷は、個人の利益のために個人が神に祈るのであるから、まことの心の平和は、いつまで経っても来ない。
無碍の光明は、十方衆生を照らす普遍的の光明であるから、これを仰ぐとき、この光明と一味にせられて、ここに永久不変の大信を与えられ、無碍の光明のうちに永遠に安住するのである。
尽十方の無碍の光明は、法界の真理である。衆生の悪業煩悩の黒闇を晴らすところの力である。この光明を仰がずして信心もなく、往生もなく、「死の解決」はない。光明を仰ぐは光明の力である。
ああ あの月が 讃うる声も 光りなり
月を見るには、心を空にして見ないと、美しい月は見られぬ。ホトトギスの声を聞くのも「心をば 空にして聞け ホトトギス」でなくては、美しい声は聞かれぬ。
それと同様に、如来大悲の月を仰ぎ、本願名号の声を聞くのには、素直になって、正直になって、阿呆になって、自分の私見を差し挟まず、教えを教えの通りに聞かなければ、教えが自分を生かしてくれぬ。
浄土真宗は「果上顕現の法門」である。如来様の智慧と慈悲との力が、教行信証である。すなわち浄土真宗である。このような高い法門を聞くには、ただ一念帰命の信順あるのみである。
帰命の一念によりて「死の解決」は成し遂げられる。凡夫の学問や思いでは解決できない。私の「死の解決」を成し遂げて下さるものは、自己の力にあらずして、「難思の弘誓」と「無碍の光明」である。「仰いでは讃嘆、俯しては慚愧」、これが「死の解決」が出来上がったすがたである。
月は天空に照り輝いておる。どうしたら月が見えるか、どうして月を見ようか、見えるであろうか、見えぬであろうかと、心を煩わす必要は少しも無い。
藪かげを 出でて仰げば 月一輪 (瑞劔)
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
2 件のコメント:
浄土真宗は「果上顕現の法門」である。
とあります。
初めて聞いた言葉で、少し調べてみましたが、よくわかりませんでした。
「阿弥陀様が南無阿弥陀仏という果となった上に、衆生のうえに、現れてくださっている。」としました。
先生にお伺いしたいところです。
そのご解釈でよろしいかと存じます。
「上」は〈~において〉(例;理論上)といった意味でしょう。
瑞劔師のご著述では、我等の行も信も如来の側でご成就して「心配するな」と喚んでくださっている、という状況を表す言葉として、「果海顕現」などとも表現されています。
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