2019年7月23日火曜日

罪悪深重の臨終の大病人

 浄土真宗は罪悪深重の臨終の大病人に聞かす真実の教えである。年若くぴんぴんしておる人でも、自分は臨終の大病人になったつもりで聞かぬことには、阿弥陀如来のご親切は届かぬ。死と業道を抜きにして信心だけを欲しがっておるから駄目だ。
 智者であり、善人である人は、八万四千の法門があるから、華厳でも天台でも真言でも禅でも、すきな門を叩くがよい。十方群生海は極悪最下の一機であると知られたら、自分が猫であることに気付いて、小判を欲しがらぬがよい。極悪最下の機には極善最上の法がある。それが南無阿弥陀佛である。

2019年7月18日木曜日

南無阿弥陀佛のよびごえ

 よびごえは南無阿弥陀佛である。また本願である。本願名号は「本願招喚の勅命」といってよびごえである。本願と云っても、南無阿弥陀佛と云っても、よびごえと云っても、親さまのまことである。真実心である。

 「南無阿弥陀佛 心配するな 待っておるぞよ」
と聞かされても、聞くことがよろこべぬか。
「どうぞおれに助けさせておくれ」
と、親さまの真実に遇わせていただいても、なおその上に何か不足があるのか。
 曇鸞大師も親鸞聖人も、口を揃えて「聞く所を慶ぶ」と仰せられたでないか。聞いてよろこぶ以外にどこに信心があるのか。何を探し、何を求め、何処に汝の信心を見つけ造り出そうとしておるのであるか。

 お前は信心というしっかりしたものを掴まぬと承知が出来ぬのであろう。
 南無阿弥陀佛のよびごえ位しっかりしたものがどこにあるか。
 南無阿弥陀佛のよびごえ一つで気に入らなければ、誓願のよびごえではどうか。誓願なるが故に、如来の御誓いである。御誓いのまことである。
 うそも駆け引きもない真実親さまの真実のよびごえである。この奥は何もない。

 これ以上奥深いことが聞きたければ日本国中回って何千人のお坊さんに片端から聞いてみるがよい。
 それも出来なければ、腹を決めて地獄へ後戻りするがよい。

            稲垣瑞劔師 「法雷」創刊号(1977年1月発行)

2019年7月13日土曜日

佛法の楽しみ

 佛法というものはありがたいもので、聞いても、読んでも、話しても、何とも云われぬ。これを喜楽というか、慶喜というか、法楽というか、法悦というか、名状することが出来ない楽しみがある。生死出ずべき道を求めて、生死を如来誓願の「よびごえ」のうちに解決していただいたら、角駄を下ろした感じがする。

 後生の問題について苦が抜けたのを「信心歓喜」という。曇鸞大師はそれを「信心歓喜慶所聞」と申された。親鸞聖人は「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」といってよろこばれた。

2019年7月8日月曜日

聖人のはらわた

 昭和五十一年も余日少なく本年の幕は閉じられるのであるが、瑞劔が心を用いたところは「生死出ずべき道」を見出すことであった。それには親鸞聖人がわれらに語らんと思し召された中心点はどういうことであったろうか。言い換えれば聖人の眼睛、「はらわた」は、那辺にあるか、それを見出したい事であった。それは

 「竊かに以れば、難思の弘誓は難度海を度する大船、
  無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」

である。「南無阿弥陀佛のよびごえ一つ」である。

                  稲垣瑞劔師 「法雷」創刊号(1977年1月発行)

2019年7月2日火曜日

師匠



 世の中の師匠は、芸能にしても学問にしても、やればやるほど上達するように導いてくれる。ところが佛法の師匠は、生死の問題について疑問を解決してくれる人でなければ師匠とは云わぬ。物識り学者を養成するのが師匠ではない。如来様の誓願のまことをまことと信ずるように導いて下さる師匠が本当の師匠である。

 『臨済録』という禅宗の書物の中に師匠と弟子の組み合わせが四通り示されてある。
①師匠は立派であるが弟子がぼんくら
②弟子は立派であるが師匠がぼんくら
③師匠もぼんくら、弟子もぼんくら
④師匠も立派、弟子も立派
 この四つの組み合わせの中で、佛道が出来るのは第四の組み合わせだけであるということが書かれてある。

 真宗でもその通りである。信ある師匠に、後生大事と真剣になっておる弟子が就いたらその弟子は必ず本願一実の大道に出られる。そうしてみると
「善知識にあふことも    教ふることもまたかたし
 よく聞くこともかたければ 信ずることもなほかたし」
と和讃にある通りである。

 禅宗でも真宗でも同じことであるが、ここに真剣に道を求める人が現れた場合には、師匠たる人は、自分の体験した最高最深のところを引っ提げて弟子(その人)の前に、わかってもわからなくとも、真剣になってそれをさらけ出すべきである。そうしないと弟子はものにならぬ。
 佛法はいつでも真剣勝負である。階段も階級も、階梯も、何もあったものではない。無常迅速、生死のこと大なるが故である。単に知識を授けるのであれば、それは世間並みの師匠である。佛法の上は、人格が接触し合い、触れあわなくては真味は伝えられるものではない。

稲垣瑞劔師 「法雷」創刊号(1977年1月発行)

No.139