光瑞寺(浄土真宗本願寺派)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
2019年7月13日土曜日
佛法の楽しみ
佛法というものはありがたいもので、聞いても、読んでも、話しても、何とも云われぬ。これを喜楽というか、慶喜というか、法楽というか、法悦というか、名状することが出来ない楽しみがある。生死出ずべき道を求めて、生死を如来誓願の「よびごえ」のうちに解決していただいたら、角駄を下ろした感じがする。
後生の問題について苦が抜けたのを「信心歓喜」という。曇鸞大師はそれを「信心歓喜慶所聞」と申された。親鸞聖人は「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」といってよろこばれた。
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No.161
本願成就文(三)
「南無阿弥陀佛」と聞いて、何十年の聴聞を捨て、知解分別を捨てて、生まれ初めて、名号を聞く思いをするがよい。聞き始めが、聞き納め。往生極楽の道は是れ一つ。 「極楽の 道は一すじ 南無阿弥陀」 「これはこれは」と、驚き入り、歓喜胸に満ち、己れ忘れて、南無阿弥陀佛の威神功徳...
功徳
佛法のことにお金を上げると、お寺の功徳には余りならぬが、自分の功徳になる。死んだ人の功徳には少しなる。けれども功徳になると思うたら功徳にならぬ。まあ何でも、上げてくれと仰ったら上げたらよいでないか。功徳・無功徳は忘れてあげるのが上上。 何でも佛法の上では、その時その時の心によ...
娑婆永劫の苦をすてて
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
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