光瑞寺(浄土真宗本願寺派)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
2019年7月13日土曜日
佛法の楽しみ
佛法というものはありがたいもので、聞いても、読んでも、話しても、何とも云われぬ。これを喜楽というか、慶喜というか、法楽というか、法悦というか、名状することが出来ない楽しみがある。生死出ずべき道を求めて、生死を如来誓願の「よびごえ」のうちに解決していただいたら、角駄を下ろした感じがする。
後生の問題について苦が抜けたのを「信心歓喜」という。曇鸞大師はそれを「信心歓喜慶所聞」と申された。親鸞聖人は「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」といってよろこばれた。
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No.156
娑婆永劫の苦をすてて
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
生死は佛の御いのち㈦
さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
鳥部山 煙の末が 恐ろしや
露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
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