2020年4月26日日曜日

法身の光輪きはもなく

 お聖教は如来の全身なるが故に、しみじみと拝読しておると、読む度ごとに、一頁ごとに、如来様が何かを教えて下さる。これを霊感と言うてもよかろうが、これは如来の生ける光明である。

 日々如来の光明に触れることが出来る身でありながら、これを捨てて、世俗の人の言葉のみに耳を傾けて煩悩を燃やしておるのは惜しいことである。

 「光明は智慧の相なり。乃至 能く十方衆生の無明の黒闇を除く」(論註)
とあるが、聖教拝読の光りこそ私の痴闇冥を除いて下さるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」誌 第9号(1977年9月発行)

2020年4月18日土曜日

如来の全身との体当たり

 浄土真宗は学佛大悲心によって、自己生死の大問題の完全なる解決である。自己の全身と如来の全身との体当たりである。如来さまも生きてござる、自分も生きておる。生きておるもの同士が、ここにぶつかって、全身を挙げての体当たりである。外から眺めておって何の佛法が味わわれるものか。
 外から見て批評するのならば、新聞記者の評論か、酒を飲みながら桜の花を見ておる花見客のようなものである。説教も花見客気分で聞いておっては、如来さまはお留守であり、自己もまたお留守である。空き家と空き家とが出逢うたところで何の得るところもない。

 如来の全身は、血もあり涙もある南無阿弥陀佛という「勅命」であり、本願という「よびごえ」である。ここに如来は全身を露出して、私の前に立ちあらわれ、私に呼びかけていて下さるのである。
 私は聞いたこと、覚えたこと、思いも、行いも、何もかもすてて、生死罪濁の丸はだかである。これが私の全身である。
 この小さな生命が如来の大生命にふれたとき、如来さまは助けて下さるのでなく、救うて下さるのでなく、私を大悲の生命のうちに融(とろ)け込ませていて下さるのである。
 そこを、
 「南無阿弥陀佛と 往生の すんでおること聞かされて」
というのである。
 如来さまは、私と遠く離れていてよんで下さっているかと思うたら、無碍の光明のうちに、私を抱き取って、「来いよ来いよ」と喚んでいて下さるのである。この大悲のよびごえを、一念無我に、理屈なしに、「忝うございます」と頭が下がったのを「学佛大悲心」というのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)

2020年4月9日木曜日

佛法を習うとは

 佛法を習うには最も厳粛な心の態度がなくてはならぬ。
 佛法を習うとは、如来の大悲心を学ぶことである。これを善導大師は「学佛大悲心」と仰せられた。佛法の習い始めより習い終わりに至るまで、命のあらん限り「学佛大悲心」である。

 すでに佛法が学佛大悲心であれば、学ぶに就いては正しい師匠(正師)を選ばなくてはならぬ。一たび正師を見つけて、その教えを請うということになれば、従来の己見、旧見を皆捨てて、正師のことばに絶対に順わなくてはならぬ。この態度、この心得が無かったならば、学佛大悲心は成就しない。

 学佛大悲心と踏み出して、如来様のお慈悲がわかったのを信心といい、信心獲得という。
 信心獲得というたところで、特別に凡夫のこころが聖者のこころになったのでもなく、昔ながらに腹も立つ、欲も起こる。大悲心を学べば学ぶほど、自分のあさましいことが目につき、罪悪無智の我が身が目につくようになるだけのことである。それが学佛大悲心のおかげである。

稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)

2020年4月2日木曜日

よんで助くる親じゃぞよ

南無阿弥陀佛の本願力の「よびごえ」を離れて、安心しようとあせること勿かれ。
「よびごえ」の中に安心もあり、信心もあり、往生もある。
白道を、一処には本願にたとえ、一処には信心にたとえられたのも、このこころである。

「信楽(信心)を願力に彰す」の一句、万劫に一たび聞くことを得たり。
「南無阿弥陀佛 一たびも聞けば往生 南無阿弥陀」の意味はここに在る。
これがほんとうの「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。

 親の身になって、子供によびかけて下さる不可思議大悲の「よびごえ」を一たび聞けば万劫の渇が治せられるではないか。親の身になれ、素直になれ。自分を人間と思うな、凡夫である。佛を親と思え、そこに後生の問題は解決する。

稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)

No.139