2020年4月9日木曜日

佛法を習うとは

 佛法を習うには最も厳粛な心の態度がなくてはならぬ。
 佛法を習うとは、如来の大悲心を学ぶことである。これを善導大師は「学佛大悲心」と仰せられた。佛法の習い始めより習い終わりに至るまで、命のあらん限り「学佛大悲心」である。

 すでに佛法が学佛大悲心であれば、学ぶに就いては正しい師匠(正師)を選ばなくてはならぬ。一たび正師を見つけて、その教えを請うということになれば、従来の己見、旧見を皆捨てて、正師のことばに絶対に順わなくてはならぬ。この態度、この心得が無かったならば、学佛大悲心は成就しない。

 学佛大悲心と踏み出して、如来様のお慈悲がわかったのを信心といい、信心獲得という。
 信心獲得というたところで、特別に凡夫のこころが聖者のこころになったのでもなく、昔ながらに腹も立つ、欲も起こる。大悲心を学べば学ぶほど、自分のあさましいことが目につき、罪悪無智の我が身が目につくようになるだけのことである。それが学佛大悲心のおかげである。

稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

早速に「学佛大悲心」を検索しました。
善導大師の観教疏(玄義分)の帰三宝偈にあるお言葉でした。

如来様の大きな心を何度も何度も学ぶ・聞かせていただかなくてはなりません。
一声聞いても同じです。

光瑞寺 さんのコメント...

「慈悲深遠にして虚空のごとし」
何度聞かせていただいても飽くことがない、一声聞かせていただいても満足する。
如来様のお慈悲の、はかりも知れぬ大きさです。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...