佛法を習うとは、如来の大悲心を学ぶことである。これを善導大師は「学佛大悲心」と仰せられた。佛法の習い始めより習い終わりに至るまで、命のあらん限り「学佛大悲心」である。
すでに佛法が学佛大悲心であれば、学ぶに就いては正しい師匠(正師)を選ばなくてはならぬ。一たび正師を見つけて、その教えを請うということになれば、従来の己見、旧見を皆捨てて、正師のことばに絶対に順わなくてはならぬ。この態度、この心得が無かったならば、学佛大悲心は成就しない。
学佛大悲心と踏み出して、如来様のお慈悲がわかったのを信心といい、信心獲得という。
信心獲得というたところで、特別に凡夫のこころが聖者のこころになったのでもなく、昔ながらに腹も立つ、欲も起こる。大悲心を学べば学ぶほど、自分のあさましいことが目につき、罪悪無智の我が身が目につくようになるだけのことである。それが学佛大悲心のおかげである。
稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)
2 件のコメント:
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善導大師の観教疏(玄義分)の帰三宝偈にあるお言葉でした。
如来様の大きな心を何度も何度も学ぶ・聞かせていただかなくてはなりません。
一声聞いても同じです。
「慈悲深遠にして虚空のごとし」
何度聞かせていただいても飽くことがない、一声聞かせていただいても満足する。
如来様のお慈悲の、はかりも知れぬ大きさです。
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