2020年11月26日木曜日

「よびごえ」のうちに信も利益も

 「よびごえ」が、あまりに強く、あまりに忝(かたじけな)いから、頑固の凡夫の心に徹る。徹った時、忝いと頭が下がる。

 それ故、「よびごえ」と「忝い」とは、佛様と凡夫と、あらわれている場所が違うが、本質は同一のものであって、如来さまの大慈悲の外なるものではない。

 如来の大悲心の「よびごえ」を忝しと聞信するところに、佛凡一体の御利益にあずけしめたもうのである。


 「よびごえ」を、ほんまに聞いたものは、「私でも、よんで下さるればこそ参らせていただく、忝いことよ」と、金剛の信心に住するのである。

 「よびごえ」をほんとうに聞いたものは、

『如来さまは「そのまま助くる」と仰せられるが、ほんに「このまま」である』

と、ありがたく、楽しく、またうれしい自覚を得るのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2020年11月18日水曜日

「よびごえ」は如来の御いのち

 助けて下さるのは阿弥陀さま、助けられるのは私、助ける方法は「よびごえ」一つ、よんで助けようと思し召すのである。
 よんで助けるより他に助ける道がない。ようまあ、よんで下さったことよと忝く思う。それが信心である。
 忝く思えば、ひとりでに、お念佛があらわれて下さる。それが佛恩報謝の念佛である。 

 「よびごえ」を軽く見るところから大怪我をするのである。
 「よびごえ」は大智慧と大慈悲とがこもった絶対価値の「よびごえ」である。
 「よびごえ」のうちにはまた親の「まこと」の全体がこもっている。それゆえに「よびごえ」を本願招喚の勅命という。勅命に信順する以外に凡夫の助かる道がない。

 勅命は絶対価値の「よびごえ」なるがゆえに、人間の善悪を超えておる。悪にも妨げられず、善にも助けられない、独立のはたらきである。
 「よびごえ」は如来の全身であり、如来のいのちである。

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2020年11月12日木曜日

願土にいたればすみやかに

 佛教は単に死の解決のみではない。また単に安心立命のみでない。
 宇宙人生の問題を根本的に解決し、迷悟染浄の因縁を明らめ尽くされた、大覚 釈迦牟尼世尊の教法に順って、各自が釈迦牟尼世尊の到達了悟せられた大涅槃境に入るための教法であり、教道である。
 また如来悲智の活動の流れに乗じて、その同一の活動をする身に成るのが佛教である。

 死は一つの関門であるが、生存中に「大涅槃に必ず到り得る」という自覚と保証が与えられるのが、現生における本願力回向の利益である。大涅槃に到りてここに志願満足し、利他の行を行ずることが出来る。これすなわち菩薩の境界である。

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2020年11月6日金曜日

自誡

  • 此の法 学ばずんばあるべからず、此の義 言わずんばあるべからず。

  • 佛法は佛法のために学ぶべし。自信教人信のために学ぶべし。

  • 火宅無常の世とはいえ、佛法を聞信する人は必ず法悦法喜がある。

  • 志だにあれば時間と機会は必ず見出すことが出来る。

  • 真宗学徒は一生懸命に聞法研究しておれば健康と長寿が与えられることを信じて、渾身の努力を捧ぐべし。この信念なきものは、大成することは不可能である。

  • 真宗学の要点は信心にある。信心中心主義でないものは、徳 具わらず、人 好みてその人の説を聞こうとしない。

  • 凡夫として名利の大山に迷惑しない者は一人もないのであるが、お聖教を読む時、法を説く時だけは名利を離れ、後生の一大事を念頭に置いてしなければ効なし。

  • 師教を重んじない時は、知らず識らず自見の覚悟が出るものである。

稲垣瑞劔師「法雷」第17号(1978年5月発行)

No.139