2023年9月25日月曜日

この愚かものを親様なればこそ

 説明すればするほど、そんなものかと思うし、説明しなければ分からぬ、分からなければ信は起こらぬ。大信心は、凡夫が「分かった」とか「分からぬ」とかいったところにはない。ただ是れ如来の本願力である。しばらく知解分別を離れて、自分の罪業の深きことを静思するがよかろう。

 親鸞聖人は御自身の罪業に泣いて、本願の無碍道を仰がれた。大信心海のうちに、如来大悲の大人格と私の愚かものと、人格の接触がある。

 如来の仰せを信ずれば文字を離れる。信じて文字を離れたとき、文字にあらわれた教えの言葉が有り難い。是れ即ち「則すれば離るるなり、離るれば則するなり」(日渓法語)の味わいである。生ける人格の接触が佛法である。生ける文字は生ける祖師聖人である。『教行信証』は聖人の法身であり、如来の光明である。

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

2023年9月20日水曜日

歓喜讃慶㈤

57 佛様は法界自然の法則を教えてくださった。法に外れ、法に背けば苦しまねばならぬ。これが因果の法則である。阿弥陀さまはありがたい。

58 因果の法則も生きておる。如来の本願力も生きておる。ここのところがどう収まるか。収まるから不思議だ。一切の矛盾は信心の徳のうちに解決される。阿弥陀さまはありがたい。

59 佛智大悲の勅命の前に、聞かぬ昔の赤児にしてしまわれた。罪悪重きこのいたずらものを、親様なればこそ。阿弥陀さまはありがたい。

60 自分は何も知らぬいたずらものであるが、親様が知ってござる。親様は佛様である。まかせても大丈夫、まかせ甲斐がある。心配がない。親様につれられてお浄土へ参る。阿弥陀さまはありがたい。

61 佛教は佛様の「智眼」と「大慈悲」と「本願」による宇宙人生の根本的解決であって、凡夫が自己に目覚める願力自然の真理を示し、「心(しん)(ぶつ)(および)衆生(しゅじょう) 是三(このみっつは)無差別(さべつなし)」の絶対最高の次元を教え、生死の苦海を超えて真の自由を得せしめ、また雑染(ぞうぜん)の人類歴史を超えて真浄なる佛陀の歴史を創るところの教えである。阿弥陀さまはありがたい。

62 諸佛如来と凡夫とは、智慧と慈悲において次元が違う。如来の勅命はそのままに信受すべきである。たよりになる勅命である。次元が違うとは、また世間道と出世間道との違い、通途(つうづ)の因果と本願力不思議の相違、迷いと悟りの相違である。阿弥陀さまはありがたい。

63 如来様はすでに至心・信樂・欲生の三心を御成就くだされて、私の往生については如来様が決定しておられる。これほど確かなことはない。私としては唯だ「心配するな」の勅命に「忝い」とおまかせするのみである。阿弥陀さまはありがたい。

64 「竊(ひそか)におもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
「夫れ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す。万行円備の嘉号は障りを消し疑いを除く」
これは親鸞聖人のはらわたである。これを願心荘厳(がんしんしょうごん)の大法門という。一句万劫の渇(まんごうのかつ)を治す。活句(かっく)に参じて死句(しく)に参ずること勿かれ。日々に玩味(がんみ)し憶念すれば、自然に必ず生死の苦海を超断することが出来る。佛法は一句のうちに無限の意義がこもっておる。その無限の空を望み見るほど楽しいことはない。如来様の無限の空は、不思議の佛智、不思議の大悲心に続いていて、無限によろこばしい。阿弥陀さまはありがたい。

65 どうしてもこうしても、銀山鉄壁が破られるものではない。これは凡夫の力ではいかん。聖人の大信海の全部であり、またそれの丸出しであるところのこの一句の外に佛法なし、生死を出ずる道なし、といただいている。阿弥陀さまはありがたい。ああ楽しい一生であった。

稲垣瑞劔師「法雷」第77号(1983年5月発行)

2023年9月10日日曜日

無我になり切った御方

 現代はおおかたの人が目玉を外の方にばかり向け、自分の利益を中心に考えもし、日常の行いもする。
 お釈迦様は、一切衆生のことばかりを思うて、文字通り「無我」になり切った御方である。無我は「さとり」の中身である。無我の底には「大智大悲」が流れてある。大智大悲になり切らぬと、無我になり切ることもできぬ。
 われらは生死の凡夫であるが、やがてお浄土に参って、無我そのものになり切らせていただくのである。それが如来の本願力というものである。本願力の目的はその他にはない。真宗の目的もそれ以外にはない。他力真宗は実に立派な、他に類のない宗教である。

 無我になり切って、一切衆生に大悲を施しうる身になることが嫌なら、それは勝手にせられたらよいのであるが、それでも如来は、そういう人が悪より悪に移り、苦から苦に入るすがたをじっと見ているわけにゆかぬ、見るに見かねて、天地の真理に一体となり、心の真理、肉体の真理を歪めることなく、真理を真理のまま、経をお説きくだされた。そして、一切衆生が苦をのがれて、最高の楽しみを得られるようにと、今現に二六時中はたらいてくだされているのである。如来の出現は、遠い昔のはなしではない。お経の文字の中に、いわれの中に、生きた如来はまします。
 私が今生きさせていただいておるうちに、如来はましますのである。如来があって私が生きておる。如来の無量寿のうちに、私の無量寿がある。如来なくして私の真の存在はないのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第77号(1983年5月発行)

2023年9月5日火曜日

如来様にはからわれて

 佛教は佛陀の教説であり、生死出べき道であり、また佛陀の悟られた法界の大真理である。生死出べき道は、禅定と大信心あるのみである。
 禅とは息慮凝心して空無我を悟り、境地冥合の域に至るをいう。
 大信心とは、無碍の光耀が無明の闇を破するをいう。生死罪濁の凡愚は、阿弥陀如来の光明名号の外に生死出べき道はない。阿弥陀如来は大慈大悲の親様である。「和讃」に曰く、 

「五濁悪世のわれらこそ  金剛の信心ばかりにて
 ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」

と。これまた佛智大悲の御はからいである。これを「自然法爾」という。

 凡夫小智の「はからい」は、皆これ妄念の圏内である。法界はただ無碍光の照耀あるのみ。大信心は無碍光の流れに乗ずるのみである。
 自分が信心取った、いただいたと「自分」が出たら皆自力。「他力」とは、如来の本願力に流されて、親のふる里に帰るのを他力という。
 他力の中の自力、これを二十願といい、また十九願という。「何ぞして参ろう」「どうしたら参れるか」と、気を使う、早やこれ自力の泥田に落ち込んでいるのである。

 「そのまま来たれ」の勅命の外に、こちらが持ち出す信心はなし。如来様は「そのまま来たれ、お浄土で待っておるぞ」とのたもう。自力の角を振り立てておれば往生は難中の難、如来にまかせたてまつれば易中の易である。

 もう命はあと一分間、如来にまかせたてまつるより外に、往生極楽の道はない。極楽の道は一すじ南無阿弥陀、わき見をするな考えな。凡夫の思いは皆自力。思案工夫をしたとても、地獄の業の外はない。

 地獄行きを そのまま助くる 御本願
  心も言葉もたえはてて 不可思議尊を帰命する

 信心を 取ろう取ろうと 幾十年
  勢尽きて 汲み上げられし 蛙かな

 佛法はむつかしいぞといえば、後込みをする。易いといえば、如来様まで馬鹿にする。業報まかせとは言いながら、苦労せぬ人いただけぬ。

 信心は 苦労の枝の 先に咲く

 凡夫が佛に成るほどの大事業、なめておったら皆落ちる。本願力が大きいで、落ちる衆生を そのままで、佛智の不思議は不思議なり。大悲の不思議は不思議なり。

稲垣瑞劔師「法雷」第77号(1983年5月発行)

No.139