2022年3月28日月曜日

大心海(続)

  • 知った分かった 凡夫の思いが 何になる 妄念の外に 心はなしと知れ
 助けて下さる方を「法」といい、助けられる方を「機」という。
 南無阿弥陀佛の本願力の法のみが、能くこの出離の縁のない、罪悪深重の機を救うて下さる。
 この法のみがこの機を救い、この機はこの法によりてのみ救われる。

  • 名号の水流れて信心となり 信心の水流れて念仏となる 願力不思議 不思議なり
 名号-信心-念佛。この一大原則を忘るなよ。
 名号は往生の真因、信心は正因、称名は報恩行である。


 念佛で往生するというのは、信心で往生するということである。
 信心で往生するということは南無阿弥陀佛にて往生するということであり、すなわち願力にて往生するということである。本願名号を抜きにして信心はない。


 如来様と一つ身である。いつもお六字と一緒である、と思い詰めるがよい。自分の思いが信心ではないが、いつしかその思いが、まことの信心になって下さる。本願力の回向にあずかる。


 阿弥陀如来は、衆生と共に成佛しようと本願を発され、その本願の通り、衆生と共に成佛せられた、そのすがたを南無阿弥陀佛という。この佛智と大悲を「忝し」といただくのが信心である。


 信心と念仏を切り離してはいかん。「招喚の勅命」が信心であり、「信心」は勅命である。
 如来の勅命は、口ばかりの仰せではない。如来様の大智慧力、大慈悲力、大誓願力である。また、佛願、佛意、佛語である。

稲垣瑞劔師「法雷」第49号(1981年1月発行)

2022年3月20日日曜日

大心海(続)

 
  • 大風に 灰を撒いたる わが心 愚中の愚 狂中の狂

 凡夫の心は皆妄念、凡夫の知識は皆自力、どうするのか、どうするのか。心たのみて弥陀をたのまぬ人が多い。自分の心に愛想を尽かすがよい。それには、大風に灰を撒いたような、とりとめもない、変幻極まりもないのが自分の心である、と確(しか)と思うて、ひとえに本願力をたのむべきである。
  

  • 因果を信じ 死をおもい 三宝に帰して 信を語れよ

 信心をいただくにも土台が要る、準備が要る。因果を深信し、無常を念じ、佛法僧の三宝に帰依することが土台である。土台が出来上がらなければ、信心の家は建たぬ。
 その上に、心は淳で、素直で、謙虚でなくてはいかん。自分はこう思うている、こう考えているではいかん。
  

  • 唯だ無碍の光明 願力摂取 説くこともなし 言うこともなし

 法界は衆生界である。法界を照らすものは、唯だ阿弥陀如来の無碍の光明あるのみ。聖人のたまわく「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。この一句、万劫の渇を治する思いがある。

  • 尽十方無碍光如来 真実功徳相で 腹がふくれる
 天親菩薩は「世尊よ、我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず」と申された。「一心帰命」は南無であり、「尽十方無碍光如来」は阿弥陀佛である。ゆえに聖人はこれを「誓願の尊号なり」と仰せられた。お六字の他に信心があるのではない。

  • 昼はひねもす 夜は夜もすがら 若不生者とせまりくる
 大悲招喚の勅命は、昼も夜も絶え間なく、不断に響いている。
 さあ今臨終という時、「待っておるぞよ」と如来様の声を聞いたら、「やれうれし!」より他はあるまい。
 臨終は今じゃ、「若し生まれずは正覚を取らじ」とお誓いあそばされた本願真実のよびごえが、今も響きわたっておる。
  
  • 本願力の南無阿弥陀佛のよびごえ一つ 信心はよびごえじゃ
 よびごえの他に、凡夫の方から持ち出すものは一つもない。こちらから持ち出したら、それは皆自力である。南無阿弥陀佛にて往生す。南無阿弥陀佛が信心である。
  
  • ああ月が 今宵の月は まるはだか はだかでいつも 親の前
 聞いたら、聞いたことが後に残る。残ることもよいが、聞いたこと、知っておること、覚えておることを当てにし、頼みにし、自分の知解分別を信心のように思うからいかん。知った信心、何にもならぬ。
 見聞覚知を当てにしないで、ひとえに本願力をたのむ人はまことの信者である。
  
  • 九十年 何を聞いたかおぼえたか 本願名号ただひとつ よばれてかえる 親のふる里
 「あなたは何十年もお寺参りして、何を聞かれましたか」と問われて、「何にも聞いておりません。何も知りません」と答える。
 「お念佛を何のために称えなさるか」と問われて、「ひとり出て下さいます、南無阿弥陀佛様がよんで下さいますのが、有り難うございましてなあ」と答える人はたのもしい同行である。
  
  • このままと 言えどこのまま 幾千種
 誰も彼も「このまま」と言うておるが、本当の「このまま」は、機の深信に徹し、法の深信に徹した人でなければ言えない言葉である。すなわち佛智の不思議を「不思議やなあ」と信じた人のみが、「このまま」の味を知っておる。

稲垣瑞劔師「法雷」第48号(1980年12月発行)

2022年3月12日土曜日

大心海

  • 佛智不思議を 不思議と信ずる外に 信心はなし

 一般佛教から言って、煩悩を断ぜずして佛に成れる道理はない。凡夫が凡夫のあるまま、往生して直ちに佛に成るということは、凡夫の智慧では、とても考え及ばぬことである。
 ただただ佛智の不思議、願力の不思議と仰ぐのみである。
  

  • 本願力が大きいで         地獄を負うて 極楽へ

 多くの人は、信心をいただいてから参ろう、念佛を称えてから参ろう、安心してから参ろう、喜べるようになってから参ろう、と思っておるようである。
 実はそうでなくて、鶴の脚は長いなり、鴨の脚は短いなり、このままで、煩悩具足のこのままで往生させていただくのである。本願力にて往生させていただくのである。
  

  • 佛法よろこび 親に孝行 人には親切

 これが人間としての第一のつとめである。こうなってこそ人間らしい人間と言えよう。この三つを守るならば、その功徳は甚大なもので、必ず健康長寿の人となることが出来る。
  

  • 佛法が 好きにならねば          にせものじゃ

 佛法は世界一の宗教で、深いこと、高いこと、真理の中の真理である。聞けば聞くほど楽しくなって、ようまあ、世の中にこんな楽しいものがあったものだ、とよろこびの心が湧き起こる。
 佛法が楽しくなるまで聴聞しなければ、ありがたいと言うていてもにせものじゃ。
  

  • 法聞けば 味と香りが 出ずるまで

 佛法は生死解脱の大道である。学問をしても難しいが、信心を獲ることは難中の難である。その難関を通り抜けると、おもしろくなって佛法が身に付いて佛法の味が出て来る。
 そういう人は、また何となく、よい佛法の香りがするものである。味と香りが出るまで聞き抜くべし。
  

  • 言えばはからい 言わねば知れず    下戸にわからぬ 酒の味

 佛法力不思議、願力の不思議をいくら言うても、信心をいただくことに眼が眩んでおるから、頭で「ああそうか」と分かっても、心の底から「ああ有り難や」とならぬ。不思議の御本願を不思議といただいて、よろこぶ人は少ない。
  

  • 佛法は 聞くでなし 信ずるでなし   ただよびごえの 響き渡れる

 佛法は聞かねばならぬが、自分が聞いたのだ、と自分が出てくる。佛法は信じなくてはならぬが、自分が信じたのだ、とまた自分が出てくる。
 よびごえがあまりに尊く、あまりに忝いから、己れ忘れて本願名号のよびごえを仰ぎ、よびごえのうちに安堵させていただくのである。
  

  • 聞く我れの なくて聞こゆる    不思議かな

 凡夫は、名号を聞いて信心歓喜する力は無いものだ。それに聞かせていただいて信心歓喜させていただくのは、全く佛力の然らしむるところである。本願力によりて本願力を信受させていただくのである。不思議なことじゃ。
  

  • 奥ふかきことを 知ろうと思うなよ    南無阿弥陀佛が 奥の奥なり

 「本願力にて往生す」「南無阿弥陀佛の功徳力にて往生す」
 このようにいくら言っても、同行は何か奥深きことがあるのであろうと思い、それを知りたがる。知って参れるお浄土ではない。南無阿弥陀佛様のお陰で往生させていただくのである。浅きは深きなり、深きは浅きなり。 

稲垣瑞劔師「法雷」第47号(1980年11月発行)

2022年3月4日金曜日

よんでくださればこそ

 南無阿弥陀佛が何故そんなに尊いのですか。
 それは如来様が尊い、如来の本願が尊い、正覚が尊いのである。ただ尊い尊いと言うても、信ぜられまい。聴聞はその尊いことを聞かせてもらうのである。

 お慈悲の佛智の、南無阿弥陀佛の「まこと」が届いて下さったのが信心である。
 また如来様の念力 願力 南無阿弥陀佛の「まこと」が届いて下さったのが信心である。
 凡夫の知解(ちげ)や思いと、如来回向の信心とは違う。
 まことの信心は、大悲のよびごえ、佛智のよびごえ、本願力のよびごえ、南無阿弥陀佛のよびごえである。
 南無阿弥陀佛を何と思うてござるやら。如来様の功徳の全体である。その功徳力用によってのみ、衆生は往生するのである。

 如来様のよびごえをどう聞いたらよろしいか。
 答えて曰く、どうもこうもあるもんかい。臨終に火の車が見ておるではないか。「ああ、うれし」より他に何もない。
 佛法を、お寺の本堂で聞くのだと思うておるからいかん。地獄の中で阿弥陀如来に一目お目にかかったら、「ああ、うれし」の他はあるまい。
 地獄の中の如来様が佛法じゃ、地獄で佛法に遇うた心地より他に佛法もなく、信心もない。
 聴聞は何を聞くか。自分の罪の深いことと、如来様の尊いことを聞いて、なるほどと心の底からいただかれたら、それが信心である。この他に信心なし。


稲垣瑞劔師「法雷」第43号(1980年7月発行)

No.139