- 佛智不思議を 不思議と信ずる外に 信心はなし
一般佛教から言って、煩悩を断ぜずして佛に成れる道理はない。凡夫が凡夫のあるまま、往生して直ちに佛に成るということは、凡夫の智慧では、とても考え及ばぬことである。
ただただ佛智の不思議、願力の不思議と仰ぐのみである。
- 本願力が大きいで 地獄を負うて 極楽へ
多くの人は、信心をいただいてから参ろう、念佛を称えてから参ろう、安心してから参ろう、喜べるようになってから参ろう、と思っておるようである。
実はそうでなくて、鶴の脚は長いなり、鴨の脚は短いなり、このままで、煩悩具足のこのままで往生させていただくのである。本願力にて往生させていただくのである。
- 佛法よろこび 親に孝行 人には親切
これが人間としての第一のつとめである。こうなってこそ人間らしい人間と言えよう。この三つを守るならば、その功徳は甚大なもので、必ず健康長寿の人となることが出来る。
- 佛法が 好きにならねば にせものじゃ
佛法は世界一の宗教で、深いこと、高いこと、真理の中の真理である。聞けば聞くほど楽しくなって、ようまあ、世の中にこんな楽しいものがあったものだ、とよろこびの心が湧き起こる。
佛法が楽しくなるまで聴聞しなければ、ありがたいと言うていてもにせものじゃ。
- 法聞けば 味と香りが 出ずるまで
佛法は生死解脱の大道である。学問をしても難しいが、信心を獲ることは難中の難である。その難関を通り抜けると、おもしろくなって佛法が身に付いて佛法の味が出て来る。
そういう人は、また何となく、よい佛法の香りがするものである。味と香りが出るまで聞き抜くべし。
- 言えばはからい 言わねば知れず 下戸にわからぬ 酒の味
佛法力不思議、願力の不思議をいくら言うても、信心をいただくことに眼が眩んでおるから、頭で「ああそうか」と分かっても、心の底から「ああ有り難や」とならぬ。不思議の御本願を不思議といただいて、よろこぶ人は少ない。
- 佛法は 聞くでなし 信ずるでなし ただよびごえの 響き渡れる
佛法は聞かねばならぬが、自分が聞いたのだ、と自分が出てくる。佛法は信じなくてはならぬが、自分が信じたのだ、とまた自分が出てくる。
よびごえがあまりに尊く、あまりに忝いから、己れ忘れて本願名号のよびごえを仰ぎ、よびごえのうちに安堵させていただくのである。
- 聞く我れの なくて聞こゆる 不思議かな
凡夫は、名号を聞いて信心歓喜する力は無いものだ。それに聞かせていただいて信心歓喜させていただくのは、全く佛力の然らしむるところである。本願力によりて本願力を信受させていただくのである。不思議なことじゃ。
- 奥ふかきことを 知ろうと思うなよ 南無阿弥陀佛が 奥の奥なり
「本願力にて往生す」「南無阿弥陀佛の功徳力にて往生す」
このようにいくら言っても、同行は何か奥深きことがあるのであろうと思い、それを知りたがる。知って参れるお浄土ではない。南無阿弥陀佛様のお陰で往生させていただくのである。浅きは深きなり、深きは浅きなり。
稲垣瑞劔師「法雷」第47号(1980年11月発行)
1 件のコメント:
タイトル 法聞けば 味と香りが 出ずるまで
のところに、「よい佛法の香りがするものである。」
とあります。
お念仏の教えをよろこぶ人を「染香人」にたとえられます。
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