「生死は佛の御いのちなり」とは、これは甚深微妙の味わいがある。これが本当の佛教、菩薩道というものである。
一体凡夫は、生死を離れて涅槃に到って楽でもしようと思っているのが一般であるが、いよいよ佛法に徹し、「無我」の心境から「大慈悲」が顕れてみれば、涅槃に住して生死をよそ目に見て、衆生の苦しみを傍観しておるようなことはしない。それならば、それは佛でもなく、悟りでもない。
『臨済録』にあるごとく、
「家舎(涅槃)を離れて途中(生死)に在らず、途中に在りて家舎を離れず」
となってこそ、「無我の大悲」の佛行と言い得られるのである。これが「菩薩道」というものである。菩薩道のほかに佛道があるのではない。
生死を傍観せずに、生死と一如になって、
「お前が地獄へ落ちるならば、自分も地獄へついてゆく」
となってこそ佛というものである。
これを分かり易く言うならば、生死を離れるには、生死の世界で修行し、生死を修行の資料にしてこそ、生死を離れることも出来るのである。
「地によって倒れるものは、地によって起きる」
生死を厭うて、どの世界に行って修行して佛に成るのか。生死にも御恩があるではないか。罪悪にも御恩があるではないか。
また、生死を離れて涅槃に到るというのが常識であるが、涅槃に到り、佛と成って、どこで佛としての活動をするつもりであるのか。説法度生は必ず生死海のうちでなければ、説法も度生も出来ないのでないか。
してみれば佛は生死海に於いてのみ、佛としての活動をなし得るのである。故に佛眼に映じた生死海は、佛として最上の道場である。佛の活動のほかに佛はない。
かく考え来たるとき、佛の家郷は永久に生死海である。佛の活動は佛の御いのちである。この辺のことを「生死は佛の御いのちなり」と申されたのである。
そうは言うものの、ひとたび通身に汗して、大死一番「無我」に徹しなければ、ただ空言に終わってしまうであろう。
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
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