道元禅師また曰く、
「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき(前)あり のち(後)あり。かるがゆえに佛法のなかには、生すなわち不生という。滅もひとときのくらいにて、またさきありのちあり。これによりて滅すなわち不滅という。かるがゆえに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかいて、つかうべしということなかれ、ねがうことなかれ」
と。この思想は『正法眼蔵』の「現成公案」にもでているのであって、「現成公案」には、
「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり、たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。」
とある。
凡夫は「生」が「死」になったように思っている。それが間違いで、「生も一時のくらい」であり、「死も一時のくらい」であり、前後際断しているというのである。
『正法眼蔵』の「有時」には、
「時時の時に尽有尽界あるなり」「生も全機、死も全機」
と申されて、すべての現象あるいは対象は「一即一切」であって、その時その時に応接したらよいのであって、これに執着して煩悩を起こすべきではない、という意味である。
「無我」の反対に「我執」のあるところに執着が起こる。執着のあるところに悪業煩悩が起こるのである。
「無我」とは執着を放下することである。禅師も「愛着あれば花は散り、草は譏嫌に生うる」と申しておられるのは、この辺の消息を言われたものである。
三祖大師の『信心銘』にも「至道無難、唯嫌揀択」とある。「揀択」とは愛憎のことである。人間も「無我」に徹して愛憎が無くなったら大したものである。愛憎あり、執着のある間は、生死輪転は絶えないのである。
これを思うとき、「生死を離れる」ということは、凡夫として至難中の至難である。ここに大死一番の精進を要する次第である。至難であるからといって修行しないような人生は、無我の智月を仰ぐことは永久に出来ないであろう。
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
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