2024年10月5日土曜日

生死は佛の御いのち㈣

 凡夫は「生死」は苦しいもの、いやなもの、厭うべきものであると思い、涅槃は楽しいもの、善きもの、望ましいものであると思っているが、それは凡夫の価値判断である。
 これに反して「無我」「無心」の心境は絶対価値に体達した境地であるから、物を二つに見て価値判断をやらない。そこのところを、

 「生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし」

と申されたのである。絶対価値の世界は平等価値の世界である。この世界は「個個円成」、相対即絶対、絶対即相対の世界である。この世界に悟入するのには「無我」「無心」でなくてはならない。
 「無我」の反対は「我執」「我愛」「我慢」である。「我が身が可愛い」というのが「我」である。「我」のあるところ、一切の悪業煩悩は入り乱れて起こり来るのである。無我になったところを「至道無難」という。

 佛と凡夫とは、どれだけ違うかというと、佛は「無我」、凡夫は「我執」である。ただこれだけの違いである。
 これだけの違いが、一は生死に迷い、一は「生死なし」「生死に迷わず」となるのである。
 人間が無我に達して、初めて「生を明らめ、死を明らめ」たと言い得られるのである。
 道元禅師は「この生死は、すなわち佛の御いのちなり」(正法眼蔵「生死」)と申された。この境地をよくよく参究するがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

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