2025年7月15日火曜日

他力には無理がない

 願力成就の報土

 人間の一切の生活、一切の思い、一切の行いは、相対の見から来る。相対の見を持った凡夫が、往生の因を自分の胸の内に見出だそうとしても、それは天上の月をつかむようなものである。「願力成就の報土」に往生するには、ただ十八願の「本願力のよびごえ」に引かれて参るよりほかに道はない。

純粋の佛因

 「はからい」は、凡夫相対の見方であり、考えである。「はからい」の生活の中に、ただ本願力の「よびごえ」は、はからいでない。純粋の佛因なのである。衆生は、「よびごえ」を聞き、信心歓喜、乃至一念して、無量光明土に往生するのである。

如来のまこと

 「よびごえ」は、如来の本願力である。「よびごえ」は、南無阿弥陀佛である。如来の「まこと」は、「よびごえ」である。如来の「まこと」は、功徳無尽である。それは「如来の智慧海」であり、「回向利益他の真実心」である。無明の長夜を照らすものは、如来の「まこと」である。 

  むねせまり やるせなきとき ただひとり
    まことの慈悲の みおや たのもし

  おもちゃの鉄砲

 露命は今宵も知れぬ。ぐずぐずしておれぬ。生死の苦海は浪が荒い。自分の「はからい」は、子供のおもちゃの鉄砲のようなものである。おもちゃでは、罪業深重・散乱放逸の軍艦は打ち沈めることはできぬ。又おもちゃの車に乗って「涅槃」の覚城へ到ることはできぬ。

無体験の体験

 禅にしても、他の教えにしても、「悟り」や「信心」は、文字言句ではない。馬を水際まで引っ張っていくことはできるが、水の味は飲んだ馬だけが知っておる。信心の味も、人々各々の体験である。自力の体験でないから無体験の体験である。

願力自然

 自然というは、願力自然である。如来の方から言えば、少しも無理がない。凡夫は「はからい」をやって願力自然の邪魔をしておる。それで往生を仕損ずる。

ほんまに「ただ」

 願力自然とは、佛智不思議を内容とした、如来の「よびごえ」であり、誓願力である。そのおこころがいただけると、「ほんまに『ただ』であった」「ほんまに不思議だなあ」が顕れてくださる。それが願力自然というものである。

稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)

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他力には無理がない

 願力成就の報土  人間の一切の生活、一切の思い、一切の行いは、相対の見から来る。相対の見を持った凡夫が、往生の因を自分の胸の内に見出だそうとしても、それは天上の月をつかむようなものである。「願力成就の報土」に往生するには、ただ十八願の「本願力のよびごえ」に引かれて参るよりほかに...