まことが大道
如来の「まこと」一つが、涅槃に到る大道である。如来のまことの門が、私一人のために開かれてあるのに、何をくよくよ門の外で泣いているのか。それ「南無阿弥陀佛」と親様が迎えに来られている。
すうと透ればよい
門はいつでも開いておるけれども、自分の方でなんとかして開けようとするところに、門は開いたまま閉まってしまう。開いておる門はすうと透ればそれでよい。私共はよう透らぬから、如来様が手を取って、連れ込んでくださる。
如来の功徳力
自力修行によって涅槃に到る自力の道と、涅槃に到った如来の功徳力を受けて佛に成る他力の道とは、振り合いがちがう。弥陀の本願を説くために、お釈迦様はお出世あそばされたのである。
日は暮れてしまう
心の中の佛を見付けることは、凡夫のできることではない。
「心性もとより浄けれど この世はまことの人ぞなき」
というのが実際である。影法師を追い求めている間に、日は暮れてしまう。凡夫の心をいくら磨いても、鏡にはならぬ。瓦のまま鏡にしていただく法がある。
無明も佛性
佛になったら無明も佛性であるが、凡夫が今日それを言うて悟ったような気になっていては、味噌もくそも同じになってしまう。
第一の関所
浄土真宗の行者の第一の関所は「はからい」である。最後の関所も「はからい」である。人間は、「はからい」がどんなものやら知らずして、はかろうておる。
第十八願のよびごえ
「はからい」のすたらぬのは、佛樣が信ぜられぬからである。佛樣は、無限の大慈悲力と大智慧力と、大誓願力の結晶である。佛法とは、「第十八願のよびごえ」よりほかの何ものでもない。往生せしむる力は唯だ是れ一つと、とくと合点するがよい。「よびごえ」があればこそ「往生一定、おんたすけ治定」である。わかってからでない。願力の不思議で助かるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
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