2022年2月20日日曜日

無明長夜のおほきなるともしびなり

 往生は阿弥陀如来のひとりばたらき、と百千べん聞いていながら、いつの間にやら、どうしたら助かるであろうかと思い悩む心が起こるものである。迷うなよ、本願力が大悲の願船である。南無阿弥陀佛が生死の大海の燈炬である。

 信心をいただいた、いただかぬ、という議論を止めて、必ず助けて下さる如来様の、佛智大悲の御本願をたのもしく思うがよい。
 如来様には、無明煩悩を亡ぼし、往生成佛させて下さる無量の力があり、無量の功徳がある。それが本願力である。南無阿弥陀佛である。

 如来様の前に坐ると、ひとりでに赤児になり、阿呆になる。そして、たのもしい。如来さまがたのもしい。
 信心を得た人は、自分が信じておることすらも知らぬものである。信心や念佛に力こぶを入れておる人は、まだまだ聴聞が足らぬ。

 阿弥陀如来は、尊い、不思議な不思議な佛様である。如来様が「親様である」ということが感ぜられたのを「信心」という。
 どうしたら信心がいただけるかと問うことを止めよ。どうにかなって助かろうと思うておる。その心がくせ者だ。
 如来様が有り難く思われたら、よくよくのお慈悲にあずかっておるのである。その他のことは理屈か偽物である。

 真宗の学問は、往生は本願力によりて易中の易である,と知るだけのことである。
 「誓願不思議」に助けられる以外に助かる道がない、と肚が極まったのを念佛行者という。
 念佛は出たらよし、出なければよし。よろこびが出たらよし,出なければよし。大悲の親様は、いつも照らしづめ、いつも喚びづめである。

 凡夫の心は澄み切ることはあり得ない。夜の夢では何十人でも人殺しをする。
 心が濁らば濁れ、澄めば澄め。往生は唯だ本願力に乗ずるのみ。
 此の世五十年乃至百年は、因果の道理をわきまえ、業報の恐ろしいことを思うて、つつしみつつしみ暮らすべきである。無常迅速、生死の問題は大きいぞ。うかうかするなよ。

 如来様の方では、極楽より外に行き場のないようにして下さっている。極楽参りと極めていただいていても、此の世は辛い、苦しいものである。

  宿とれど 日暮れの雪の 寒さかな(瑞劔師)

 苦しいことがしばしば起こってきたら、「因果業報はおそろしいものだなあ」と思え。因果を教えて下されたお釈迦さまがまた「本願真実」もお説き下された。自身の往生は間違いないと思うがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第42号(1980年6月発行)


2022年2月12日土曜日

本願名号が私の上にはたらいて

 阿弥陀如来の本願というは、南無阿弥陀佛を聞かせて信ぜしめて、極楽へ迎え取らんと誓いたもうたのを「本願」という。
 ゆえに本願と名号は不二一体である。
 ゆえに六字釈は本願論であり、本願力を仰ぐことが六字釈である。

 六字というと文字であるとばかり思って、死にものに取り扱っては六字釈は分からぬ。
 お六字は生きてござる。久遠劫の昔から生きてござる。天地と共にその生命を一(いつ)にして、しかも「不可思議の功徳」のかたまりである。

 多くの人は、自分が念佛称えたら、自分が称えた力で往生するように思うておる。これらの人を二十願の部類の人という。
 第十八願の信心、第十八願の念佛というは、自分が信じたから、自分が称名の善根を積んだから往生するのだといった、倫理的・道徳的の行為とは全く訳が違う。
 如来様の行を如来様が行じてくださった、その本願力を、今、此処に見させていただくのが、今日の我等の念佛である。

稲垣瑞劔師「法雷」第42号(1980年6月発行)

2022年2月4日金曜日

示形垂名してくださる

    六字釈といえば、単に文字の講釈が六字釈ではない。「南無阿弥陀佛にて往生する」のが六字釈である。
 また、阿弥陀如来の正覚の功徳力にて往生する道が六字釈である。これが浄土真宗であり、他力である。聞けば聞くほど驚くべき大真理がある。
 何が驚くべき真理かといえば、阿弥陀如来の自利利他円満の正覚、「南無阿弥陀佛」という真理が驚くべき大真理である。六字釈は先ずそれに着眼しなければならぬ。

 法界の万物は本来無我であり、無我の大悲であり、また無分別であり、無分別の大智である。
 無我の大悲と無分別の大智は、これを法身佛といい、法性といい、真如という。
 真如の徳用(はたらき、功徳)がそのまま人格の中にとけ込んで、あらわれくださった佛が阿弥陀如来である。
 阿弥陀如来が、その徳を残らず「名」に示し、「声」に示して現れくださったのが「南無阿弥陀佛」という六字尊号である。凡夫の世界における品物の名と同じではない。

稲垣瑞劔師「法雷」第41号(1980年5月発行)

No.139