2022年2月4日金曜日

示形垂名してくださる

    六字釈といえば、単に文字の講釈が六字釈ではない。「南無阿弥陀佛にて往生する」のが六字釈である。
 また、阿弥陀如来の正覚の功徳力にて往生する道が六字釈である。これが浄土真宗であり、他力である。聞けば聞くほど驚くべき大真理がある。
 何が驚くべき真理かといえば、阿弥陀如来の自利利他円満の正覚、「南無阿弥陀佛」という真理が驚くべき大真理である。六字釈は先ずそれに着眼しなければならぬ。

 法界の万物は本来無我であり、無我の大悲であり、また無分別であり、無分別の大智である。
 無我の大悲と無分別の大智は、これを法身佛といい、法性といい、真如という。
 真如の徳用(はたらき、功徳)がそのまま人格の中にとけ込んで、あらわれくださった佛が阿弥陀如来である。
 阿弥陀如来が、その徳を残らず「名」に示し、「声」に示して現れくださったのが「南無阿弥陀佛」という六字尊号である。凡夫の世界における品物の名と同じではない。

稲垣瑞劔師「法雷」第41号(1980年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

摂取不捨の真理が、言葉となって、名号となって、
尊号「南無阿弥陀佛」と、
摂取不捨の真言となって、私の上にはたらきかけてくださるのです。

光瑞寺 さんのコメント...

名号は、言葉となり声となって、私に迫ってきて下さる。
摂取不捨がありがたい。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...