2021年11月28日日曜日

相対的善と絶対善

 善に二通りの善がある。一つは「相対の善」であって、他は「絶対の善」である。
 「絶対の善」はこれを最高善という。人間の善はすべて相対の善のみである。なぜかといえば、人間の智慧は相対的の知識だけしか持っていないからである。絶対の智慧は人間にはない。

 佛教において善悪の種類と階級を分類すると、ざっと十階級ある。それは、㈠地獄 ㈡餓鬼 ㈢畜生 ㈣修羅 ㈤人間 ㈥天 ㈦声聞 ㈧縁覚 ㈨菩薩 ㈩佛 である。これを「十界」という。
 ㈠から㈥までの生類は「悪」甚だしく、「善」といっても相対的善のみである。ゆえにこれらを「六凡(ろくぼん)」という。
 ㈦から㈩までは「絶対の善」、すなわち純粋の善(清浄の善)か、それに近い生類である。ゆえにこれら四つの階級のもを「四聖(ししょう)」という。完全なる善、すなわち絶対の善(純粋の善)のものは、最高の生類、すなわち佛陀あるのみである。
 善の階級と種類がどうして分かれるかといえば、智慧の有無と慈悲の有無と、無我と我執の差異によって、善悪に差異が生ずるのである。
 絶対の善は絶対の智慧である。絶対の智慧の佛陀にして初めて、絶対の善を行い得るのである。人間は相対の知識しか持っていないから、相対的善しか為し得ないのである。

 キリスト教は大宗教であるが、「善」について、人間の善と神の善、相対的善と絶対善、清浄の善と汚れたる善との区別と理論がない。
 たとえば『マタイ伝』に「心の浄きものは幸いなり、その人は神を見ることを得べければなり」とある。この場合「心の浄き」とはどの程度の浄さをいうのであるか不明である。
 佛教では、禅定を完成して心が澄浄に成ったのを真智といい、大智という。「真智・大智」は直ちに大慈悲を生む。絶対の善とはこの境地を指すのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第37号(1980年1月発行)

2021年11月20日土曜日

善とは何ぞや

 人間が我慢・我執を拭い去り、法性・佛性・心性・真如と合一したならば、常に大智・大悲をもって衆生を済度せられるのである。それが佛陀であり、聖者と言われる方である。その為すところのものが真実の如来行であり、大乗佛教で言うところの善である。
 佛陀は善の根源であり、善であり、その教法は悉く善である。修行も善なれば、佛陀を信ずる信心もまた善である。
 要するに、大宇宙の絶対の真理と、絶対の真理を悟った大智と、大智に即した大悲は善の本源である。これを理想として進む人間の一切の行動は善である。この理想追求に反する行為は、すべて悪である。

 然しながら悲しい哉、実際に於て凡夫は常に我執・我慢によって心が汚されておる。その汚れた心を以て為すところの善は、是れ善に似て悪であり、罪である。
 このところまで徹底して凡夫の地性を見究め、その上に立って往生成佛の法を説いたのが浄土真宗である。

 浄土真宗に於いては、もとより聖道諸宗の聖者たちがせらるる善を善と認めはする。またわれら凡夫として為し得る善を為し、悪を遠ざかるように力めはするが、信心の上から、
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して
  出離の縁あることなし」
と深信したる罪悪感(機の深信)が是れ善である。
 同時に、本願力によりて「かかる者が救われる」と深信したる大信心(二種深信)が是れ善である。

  なにゆえに二種深信が善であるかと言えば、機の深信は、普通一般の信前の罪悪感と異なって、本願力を仰ぐ法の深信であるからである。法の深信もまた、機の深信に即した、如来回向の佛智なるが故に、是れ善である。
 二種深信の外に信心はない。まことの信心は必ず機法二種の深信となって現れる。これは信心の必然的法則である。機法二種の深信はすなわち大信心であるから、大信心は善である。

 なにゆえに大信心が善であるかと言えば、信心の体は名号である。
 名号は如来の佛智と大悲心の結晶であって、衆生のための大善・大功徳である。
 名号と信心とは別なものではない。南無と帰命するままが、南無阿弥陀佛である。名号が大善・大功徳なれば、信心もまた大善であることは、推して知ることが出来る。

稲垣瑞劔師「法雷」第36号(1979年12月発行)

2021年11月12日金曜日

四重にも「ふるい」をかけて

 真宗は廃立(はいりゅう)をやかましく言う。廃立とは、悪い教えは廃し、正しい教えを立てる、これを廃立という。真宗は四重(しじゅう)の廃立を立てる。

  ㈠「内外(ないげ)廃立」とは、外道を捨てて、佛教を用いる。

  ㈡「聖浄(しょうじょう)廃立」とは、聖道門を捨てて、浄土門を用いる。

  ㈢「要弘(ようぐ)廃立」とは、十九願を捨てて、十八願を用いる。

  ㈣「真弘(しんぐ)廃立」とは、二十願を捨てて、十八願を用いる。

 十八願の真実信心に入るには、過去世に於いてか現在世に於いてか、まず外道を捨てて聖道門に入り、聖道門から浄土門に入る。浄土門に入っても、始めは十九願に入る。

 十九願とは、「修諸功徳の願」といって善い事をし、禅定を修し、念佛も称えて往生しようとするのが十九願である。つまり定散行を修して往生を志願するのが十九願である。

 二十願とは、「定散行」は廃(すた)ったが、何ぞして参ろうとする心がある、すなわち「定散心」が残っておる。その定散心をもって念佛一行を修して往生を志願するのを二十願という。

 十八願とは、定散心も廃(すた)って、「名号の功徳」「本願力一つ」で往生すると心が定まったのを十八願というのである。
 いかなる人も、十九願から二十願に入り、二十願から十八願に転入するのである。これを「三願転入」という。

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

2021年11月4日木曜日

願力無窮にして佛智無辺なり

 大谷光瑞猊下が別府の病院で御往生あそばされたとき、臨終に「願力無窮」の御和讃を一、二回上げられ、お念佛と共に往生せられた。
 神戸の青木の無量寺の坊守さんは、三十二歳の時瑞劔より「願力無窮」の御和讃を聞き、八年経って臨終に際してまた瑞劔より「願力無窮」の話を聞き、「落ちるままですね」の一言を残して目出度く往生せられた。
 一首の御和讃、よく久遠劫来の生死の苦輪を解脱せしむるのである。何十年苦しんで未だ苦界を出ずることのできないものは、すべからく「願力無窮」の聖句に参ずるがよかろう。

 「願力無窮」とは、本願力は甚深微妙、無限の力があるということである。火宅無常の世界に生まれ出で、煩悩具足の凡夫として、生死をのがれる道の絶え果てた者は、如来の本願力によりてのみ、生死を出ずることができるのである。
 親鸞聖人は、願力の無窮なることを篤くいただき、深くよろこばれた。そのよろこびがこの御和讃で、これで後生の問題が解決できないということはない。佛智と大慈悲の丸出しである。
 どれほど重い罪業も、本願力の溶鉱炉の上へ持ってきたら一片の雪で、すぐ融けてしまう。その力を「願力無窮」という。まことに頼もしい極みである。

 「佛智無辺」とは、われらの心の散乱放逸も、往生の障りにならぬということである。それは佛智の不思議である。
 信心はまだ獲ておらぬ、医者は手を放した、出てゆく後生は真っ暗闇である。このときに「願力無窮」の御和讃が無明長夜の灯炬(とうこ)になって下さる。
 この和讃をくり返しくり返し誦しておると、安養の妙果が私を差し招き、阿弥陀如来がにこにことして私を待っていて下さっているのが、眼に見えるように思われる。

 和讃はどれもこれも有り難いが、とくに「願力無窮」の和讃が有り難い。この有り難い味は、口に出して言うことができぬ。
 それというのは、「願力無窮」を味わうときは、自分の智慧も考えず、行いも考えず、善悪も何もかも考えず、ただ、どうしても助からぬ内心秘奥の苦悶を抱えて、丸のはだかになって、如来様に遇うた心地で味わうのである。
 その時には、これから信心をいただこうとか、もう信心をいただいたのだからとか、そんなところに用事はない。
 自分の罪悪の深いことは言うても言わなくても知れたこと、自分が落ちる自分であることはこれまた知れたこと、まるで大海の捨て小舟のようなこの奴に、絶望の淵に沈んでおるこの者に、響いてくるのがこの和讃のことばである。
 そんな味が人に言えるものか。また言うたところで自分が感じたほど人は感じてくれぬ。感ずる感じないに用事はない。ただ願力無窮が有り難い。生命の声は生命を与えてくれる。如来生命の声は、如来回向の生命の耳をもって聞かねば聞かれぬ。

「願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 佛智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず」

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

No.139